ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

戦争

ここ数日何か妙な気分に囚われて、今まで生きていた世界が少し違ってしまったような、そんな気持ちになっている。侵略戦争はもう起きない、その人間の持っていたはずの共同幻想(それも僕の幻想だった)が破られたことにショックを受けているのだと思う。戦争をこんなに肌で感じたことはなかった。

戦争とは何だろう。強い国、つまりは人間の殺傷能力に最も長けた国(あるいはそのような兵器を有する国)がえらいのだと、戦争を正当化するならそのように言えると思うが、戦争を知らない僕にはその論理はとても不思議なものに見える。もうちょっと地べたまで見ようとすると、それは最も多くの人を苦しめ、悲しませた者(あるいはそのような能力を有する者)がえらいのだと言える。やっぱりその考え方が正当化されるのは、僕には分からない。

それは全然逆なんじゃなかろうか。己の欲をむき出しにして力で人を圧する者えらいのではなくて、己を滅して多くの人に喜びを与える者がえらいのでは?キリストやブッダなどその最たる人で、だからその生き方が教えにまでなったのだと思っていた。

しかし、翻って考えてみれば学校で教えていることも戦争と同じようなものかもしれない。僕は高校の教員をやっているが、人と競わせ、それに打ち勝つ者がえらいのだと、しつこいほど教えているのは我々だ。他を圧し、屈服せしめる者が有能なのだと、ご丁寧に点数までつけて生徒同士を争わせ、自尊心をくすぐり、自己を増長させる。
己が一番えらいのだと勘違いしたカオナシの中から、己は特別で、他を蹴落とし、苦しめ、悲しませても構わない、その権利があると考える者が出てきても何ら不思議ではない。そうすることが正義だと教えられてきたのなら、何も不思議ではない。その気分の、同じ地平の、最もエスカレートしたところに戦争があるのではないか。それは考えすぎだろうか。

暴力を使用するかどうか、行動の主体が個人か国かで「戦争」か否かがが定義されるが、似たようなことは我々の日常の中にゴマンとあって、つまり定義から外れた戦争が山ほどあって、その素地を作るのに少なからず我々が加担している。それは力(人を圧し、屈服させる能力)を持つ者が正義だという気分だ。

我々がまず第一に伝えるべきはその逆のことではないのか。己を滅し、人に喜びを与える者がえらいのだと、それさえ伝われば、あとのことはもう何にも知らなくたっていいんじゃないのか。その最も重要なことをおざなりにして、学校は塵芥のようなものばかりを子どもに拾わせている。戦争はいけない、悪だ、しかし我々も戦争の気分の延長線上にいる。逆の地平に立たない限り潜在的な戦争は無くならないだろうが、ブッダが生まれて以来、キリストが生まれて以来、何度もその地平に立とうとして、やはり立てなかったのが人間なのだろう。

そのようなことを少し考えた。