先日、生徒から質問を受けたが、とんと知らないことだったので「知らない」と答えた。生徒はその僕の返答に当惑した様子だったが、しばらくして諦めることに納得したようだった。落胆させたかと思ったが、思いとは裏腹に心は軽くなった。
近頃このようなことがあるとホッとし、逆に強がって見せることがあると後でひどく落ち込む。
多発する先生の不祥事はひとまず置いといて、先生とは高潔に見られがちな職業である。なるべくその像に囚われないように心がけてはきたが、しかし心の片隅には「清く、正しく」みたいなことがやっぱりあって、時々そいつに引っ張られて、身動きが取れなくなる。
でも、僕は清くも正しくもないし、博識なわけでもない。できないならできない、で良いのだと思う。知らんがな、でいいのだと思う。恥をかくとか、落胆させるとか、「負け」の側面を己が被ったと一時は思ってしまうが、代わりに己にまとわりつく何か亡霊のようなものから解放される。元の自分を取り戻せる。それはラッキーなことだと思う。
「負け」には浄化の作用もまたある。
というようなことを昨日の投稿で書こうとしたのだがうまく書けなくて一度上げたが消した。スターをつけてくれた方には申し訳ない。ずっとすっきりしなくて何度も書き直したがうまくいかなかったので全然違う形でもう一度書いてみたら割とスッと書けた。おかげでスッキリした。
書くこともまた一つの浄化であるか。