ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

え、もしかして俺がやんの?

はてなインターネット文学賞を頂いてから少しだけ状況が変わった。毎日更新、とまではいかないがブログを頻繁に更新するようになった。表に出すもの、出さないもの含めて書く量が飛躍的に増えた。

受賞してからしばらくの浮かれた期間が終わって、嫁さんとまたちょっとした話をした。主には僕の書くもののどれが面白くてどれがそれほどでもないか、について。大雑把に言うと文章は面白いが漫画はそれほどでもない、とのことだった。言いにくいことをズバッと言ってくれるぜ。正確に言うと漫画も面白くないわけではないが他に同じようなことをしている人がゴマンといる、という表現だった。
なるほどその通りかもしれない。

ただ、文章といって、僕は特別なものを書いてきたわけではなく、ただの日常を記録として残したくて、できるだけ正確に書こうとしてきただけだ。それの何が面白いのか今もってよくわからない。誰にでもできることだ、というようなことを僕のブログをずっと読んでくれている料理人の友人に伝えたところ「それは違う」と言われた。「それなら我々の仕事も同じことで、我々の作る料理も誰にでもできることだ」続けてそう言われた時にハッとして、納得してしまった。

今まで誰にもできないことを独自にやってのけるのがオリジナルだと思ってきたが、そうではないのかもしれない。誰にでもできるが誰もやらないこと、それを異常な熱量とこだわりを持ってやってしまうこと、オリジナルとはそういうものなのかもしれない。

そうして己の書いたものを見返した時に、僕が漫画や小説で「こいつぁ面白いぜぇ」と思って書いたものはもうすでに誰かがやっていたり、あるいは誰もがやりたいと思っていたことで、逆にこんなの誰かがやるだろう(やってるだろう)と思って書いたものは割と誰もやらなくて、はたからみて面白いことだったのではないか。つまり「やる、やらない」「おもろい、おもろない」の部分がチグハグになってしまっているように思えた。

そうしてさらに己の生活を見直した時に、例えば高校の非常勤講師の生活であったり、無人島での毎日などは「俺でなくても誰かがやるだろう」とずっと思っていて、特に無人島の記録などは「早く誰かやってくんねえかな」と待ち望んでいたが、10年待っても誰もやらない。いやむしろ誰か早くやれよ。

非常勤の生活も学校や教育のことに特化したものはよくあるが、具体的な生活の中身がどんなものかはあまり誰もやってないのかもしれない。それは例えば高校の非常勤講師は毎日酒を飲むのか、飲まないのかということで、僕にとってはそこがとっても重要なところだ。なお、僕は毎日は飲まなくなった。
yoakenoandon.hatenablog.com
とかくそういうことで、誰かやってるだろう、とか、誰か早くやってくれねえかな、と思うことは実はあまり誰もやってないことで、しかしそれは僕の役割でない気がずっとしていたのだが……え、もしかして俺がやんの?

このまま待っていても結局誰もやらない気がしている。