ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

毎日に規則性を

子が生まれてから、特に二人目が生まれてから、僕と嫁さんは子育てに埋もれるようにして生きてきた。

子が大きくなるまではしょうがないと思っていたけど、規則性の無い、子らにより選択されるランダムな毎日は、精神的にも肉体的にも滅茶苦茶に疲れる。

寄る辺がないと言えばよいのだろうか、とにかく毎日あっち行ったりこっち行ったりして、芯になるものが無く、自分がどこに向かって何をしているのかがわからなくなる。まるで大海で波に揉まれて溺れかかっているようさ。

それでつらくなって、酒に走り、今日も何もできなかったと悔恨を噛み締めたまま眠る。

それでも蜘蛛の糸に捕まるようにしてかろうじて絵や文を書き続けてきたが、その糸もじきに切れよう。
精神的につらいこの状況を打破しない限りは。

今まで僕は「毎日」に強いこだわりと、また同時に警戒心を持っていた。
「毎日」は良い、素晴らしい。しかし、いつの日かそれが惰性に変化し、続けるためにただ続けている、という状態になった時、僕は言いようのない嫌悪感を覚える。その状態に陥ることだけは忌避しなければならないと思ってきた。

だけどもうそんなことを言ってられる状況ではない。惰性で続けているクソみたいな状態より、何一つ身動きの取れていない今の方がよっぽどひどい。
それに、考えてみれば僕は惰性に陥るまで「毎日」を続けたことがない。モノを言うならとことん行ってから言うがいいさ。

それで、絵日記をもう一度書こうと思った。文章は毎日やるには僕にはちょっと重い。だけど絵日記なら適当でいい気がして、毎日できそうである。

毎日書くことで一日の軸を作ろうと言うのだから、内容なんてどうでもいい。1枚書ければそれでいい。それは誰に見せるためのものでもなく、自分に見せるためのもの。

毎日書くための時間は捻出しようとしなければ捻出されないであろう。子育ての、嵐の日々に「なんとなく」は存在しない。それでも、無理矢理にでもやる、を選択する方が何もしない(できない)を選択させられるより心は救われる。
少し、強制力を働かせるために、書いた絵日記は放置されて長い場所に載っけることにしようか。どうせ使われてないのだ。掃き溜めとしてでも使われた方が、その場所も生きるであろう。
ここは僕にはsacred areaで、掃き溜めには向いていない。

せめて長男が幼稚園に入るまで、3ヶ月は毎日絵日記を続けよう。そうすることで地球のように、毎日が回るための軸ができれば。自分が今どこで何をしているのかがわかるようになれば。

木のような、定常円旋回のような生活こそ、僕はしたい。