ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

2022年6月10日の日記(集中と拡散)

兄貴のところに女児が生まれた。その前ぐらいから身辺が忙しくなり始めた。5月はむちゃくちゃ金を使った挙句、むちゃくちゃ何もできなかった月だった。が、一つの気づきを得た。

しばらく、と言ってどの程度かわからないが、インスタもブログも更新をやめようと思う。人に見せることで失われるものがあって、見せないことで守り、育てられるものがあるとわかったのだ。それは自己(の気持ち)だ。どこまでも広がる空のような、海のような気持ちが、人に見せることで損なわれ、鉛色の雲が心を支配するようになる。そこから生み出されたものもまた鉛色をしているだろう。不特定多数、特に僕のことを知る不特定多数に見せ続けている限り、真に自由で人の心を解放するようなものは書けない。それは真理だ。本当は僕だと悟られるのも良くないのかもしれない。作品と僕は別人格だ。作品によって「僕」に対する評価が上がったり下がったりするのは極めて良くないことだ。そのための作品になってしまう可能性があるから。早い話、作品が堕落しちゃうということさ。作品と僕は無関係だ。少なくともそう思えるような環境を作ることは大事なことだ。これまでの僕は持てる時間のほとんど全てを誰かに見せることに使ってきた。逆だよ。矢印が逆向いてんだよ。その結果、自己も時間も拡散して真には何一つ進めない状況にあったと思う。何もしてなかったのと同じさ。この日記もそうだなあ。やっぱりブログを書くと力(自己)が拡散して集中できない気がする。いや、本当のところブログは少し違うかなという気もするのだけど、時間の拡散は免れない。何もかもとっ散らかっちゃうんだな。

だから逆だ。拡散させるんじゃなくて閉じこもって守りたい。外に向かうんじゃなくて自己の中心に向かって集中したい。それができてたのは僕が一人だったころ。それから嫁さんと一緒になって嫁さんに見てもらうために必死に書いてたあの頃だけだ。真にいいものはあの頃書いている。もう一度、入口に戻ろう。



以上のような経緯で僕は書くのをやめた。文中に「ブログは少し違う気がする」と書いてあるが、しばらく離れてみて自分の言っていることが正しいと感じる。つまり、人に見せることを前提として書かれる文章もあるということだ。はてなブログで賞もらった『2月3日』などはまさにここでしか書けなかった文章だったと思う。つまりここで文章を書いたとしても己が損なわれるようなことはないと言えるが、しかし時間がない。ここで書こうとすれば時間が拡散してしまう。ここで書くのをやめてから個人の日記を書く量は飛躍的に増えた。つまりそういうことだ。人は全てを選択できない。

また、突発的に書くことはあるかもしれない。感覚の合う賞の募集があればそれ用の文章も書くかもしれない。しかし、日常的にここを更新するようなことはもうないと思う。ああ、こう書くとなんだかとても寂しい。