ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

モンゴル6日目

7月20日(木)

朝8時半よりラジオ体操、そして朝食。

今日はキャンプ最終日で、バーベキューから馬頭琴からキャンプファイアーから、盛りだくさんの内容である。

朝食が終わって、キャンプファイアーのための薪を希望者を募って取りに行く。日本での事前打ち合わせでは80人の参加者を4つのグループに割って、モンゴルの大草原でしっぽり焚き火のキャンプファイアーがいいんじゃないかと結論が出た。しかし、いざこっちに来てみると時間が無限にあり、もうしっぽり焚き火を囲んで話すようなことはあらかた話してしまったので、1発どでかいファイアーを囲み、歌って踊りたい、と予定はいとも簡単に変更された。

もう、急な予定変更や取り消しがあっても何も思わなくなった。行き当たりばったりの臨機応変はモンゴルの常だ。

朝には自由に乗馬もできたため、薪拾いの希望者は中年の男性陣を中心に10名強しか集まらなかった。少ない。が、自由参加なので仕方がない。

うちの親方(僕の父)が、陣頭指揮を取って薪拾いについて説明する。途中から山水人(やまうと)のヒッピーのお祭りの話になった(火おこし役で父は呼ばれていたみたい)。白人の女の子が山水人で指輪を無くし、皆でいくら探しても見つからなかったのに父が探してみると5分で見つかったとの話であった。

ところが、せっかく指輪を見つけてあげたのに、その白人の女の子は突然父に向かって怒り出したそうな。つまり、皆が1時間も2時間も探して見つからなかったものを父がいとも簡単に見つけ出してしまうというのは、それはあなたが盗ったからでしょう、と女の子は主張したわけで、それを聞いて父はその女の子をぶん殴りそうになった、という話だった。

あれ?なんでこんな話したんだっけ?

そうそう、つまり薪でも指輪でも焦点のズレたところをいくら探してもしょうがないよ、ということを父は話したかったのだと思う(多分)。

薪で言うと上から下に向かって探すより、下から上に向かって探す方が見つかりやすい。ちなみに白人の女の子の指輪は、人がよく通る道を重点的に探したらすぐに出てきたのだそう。

ということで、ある程度横に広がって近くの、恐らくカラマツであろうと思われる林を下から上に薪を探していくことにした。

しかし、モンゴル側のキャンプの責任者からは林に入れば薪は落ちていると聞いていたのだが、実際に入ってみるとほとんど落ちていなかった。林の低いところの薪は、キャンプ地で使う用にあらかた取り尽くされていたのだと思う。

そこで我々は薪を「拾う」のをやめた。いくら地面を探してもキャンプファイアーに必要な分の薪は絶対に見つからない。地面を見るのをやめて目線を上げ、カラマツの木の枯れてる枝をバンバン「折って」いくことにした。

枯れているがまだ木につながっている枝は面白いように見つかった。また、面白いぐらい簡単に折ることができた。参加者からは「薪拾いっていうから下見るのかと思ってましたが違うんですねえ」と声をいただいたが、僕もついさっきまで下を見るのだと思っていた。

この薪の取り方ならキャンプの第3班まで十分な量の薪を確保できそうである。参加者も今までずっと草原で過ごしてきて、今回初めて林の中に入ったのが新鮮で、しかも枯れた枝を探すのも、薪を折って取るのも初めてで、随分楽しそうにしていたのでよかった。

5メートルほどの高低差ごとに薪を1箇所に集め、どんどん上に登って行った結果、林の先に空が見えたので、せっかくなら稜線まで出ようと登り切ってみるとお花畑が広がっていた。

しかし、昨日山に登ってもっとすごい景色を見ていた我々には特に感動はなく、10数箇所にわたって集められた薪を皆で手分けしながら持って降りた。その頃には乗馬を終えた参加者たちが手伝いに来てくれて、薪を下ろすのは随分楽ちんだった。

今日のお昼は山を登ったところにある素敵な場所でバーベキューと聞いていたが、いざバーベキューの現場まで行ってみると何のことはない、先ほど薪拾いのついでに見た稜線上のお花畑がバーベキュー会場だった。

バーベキューの準備は現地のスタッフが全部やってくれたので、僕は少しの間隙を縫って眠った。僕は割とどこでもすぐに眠れる。かつて人からそれは才能だと言われた。

逆に眠らないと僕は動けなくなる。

バーベキューの後はキャンプ地にモンゴル国立馬頭琴交響楽団のソリストの方が来てくださって、馬頭琴の演奏会があった。少しだけ拝聴させてもらったが、キャンプファイアーの準備があったので早々に演奏の会場を退室した。馬頭琴の音色は、チェロともバイオリンとも違う、豊かな混合音という気がした。ヨーロッパの綺麗な音に、中央アジアの風が混じり合っている。

取ってきた薪をキャンプファイアーの形に組むのは現地のモンゴルのスタッフにやっていただけるようだったので、父と火おこしの準備をすることにした。

キャンプ場にある材木を使わせていただき、ナタとノコで削って火切り棒と火切り板をそれぞれ2つずつ作った。2セット作ったのは失敗した時のことを考えて。その場でもう一度削って作るのは面倒くさいからだ。棒と板には相性があり、何がどうあっても火がつかない組み合わせも存在する。

火切り棒と板。1セットは使用済み(写真は第3班の時に撮影)。一番右の使用済み火切り棒はゲルを支える支柱で作った。

経験上、棒が硬く、受ける板が柔らかい方が良い。硬い棒を柔らかい板の穴に差し込み、摩擦して火種(火の赤ちゃん)を作り出す。比喩表現でもなんでもなく、実際にそのようにして火の赤ちゃんはできる。人間と同じじゃん、といつしか不思議に思うようになった。

火切り棒を作っている途中に馬頭琴の演奏が終わり、何を作っているのかと参加者がちらほら見学に来たので、一人をつかまえて、火切り棒の一つを削って作ってもらうことにした。こちら側で全部準備するのではなく、準備から含めてなんでも参加者にやってもらった方が参加者も楽しめるし、もし仮に失敗したとしてもこちら側の責任という話にならず、あたかも失敗がプログラムに含まれていたかのようになる。言い方を変えれば誰の責任でもなくなり、失敗を楽しめるようになる。

それに、なんでも見てるだけではわからなくて実際にやって、体で覚えないと身にはつかない。

棒と板を作ったあとは棒を押さえるための装置を作った。80人で綱を引いて火おこしをするので、押さえも相当頑丈なものでないと、棒の回転の勢いに負けて、吹き飛ばされてしまう。それに押さえつける力(圧力)が高ければ高いほど火は起きやすい。ギュンギュンに押さえつけられた棒がものすごい力で引っ張られ、回転すると割と簡単に火はつく。10人以上でかかれそうな、お神輿の土台のような押さえの装置を作った。

押さえの装置。これを持ち上げてひっくり返し、真ん中の穴の空いてる部分を火切り棒の上に差し込む。

それが終わって夕寝をし、夜ご飯。

夜ご飯が終わってから、一昨日夜から始まった参加者の自己紹介の続き。これがめちゃくちゃ長くかかり、キャンプファイアーの場所に参加者全員が集まったのは22時近くになった。

おまけに最後の夜だと言うので夕食の際にモンゴル側の責任者よりウォッカがふんだんに振る舞われ、僕と父を始め、飲むのが好きな参加者は皆ベロベロになってしまっていた。

こんなに酔っ払った状態で火おこしをするのは初めてだ。

夕食会場から外に出ると満天の星空だった。天の川までうっすら見える。

キャンプファイアーは井桁ではなく、互いにもたせかけて三角形に作られてあった。僕はこの形のキャンプファイアーの方が好きだ。

ちゃんと火を入れるように隙間も作ってくれていたが、風下側に隙間が作られていたので我々の方で風上側に隙間を空け、火のつきやすいものを用意した。

参加者が全員集まったところで父がマイクを握り、火おこしの説明。ここ数年は僕が火おこしの指揮は取っていたので意外だった。どうも今回は久方ぶりに父がやる気になっているらしい。あとで「悪かった」と詫びを入れられたが、詫びなど入れる必要はない。80歳になっても皆と火を起こす姿を見ることができて嬉しかった。

火おこしは、火切り棒を中心に右と左に40ずつで分かれ、交互に引っ張り合う。真ん中、火切り棒の押さえには屈強な男子(中年)が集まり、さらに内モンゴルから参加の、ラオウの親衛隊みたいなガタイのスキンヘッドモンゴル人も加わった。

かけ声は「モンゴル」。

「モン」で左が引っ張り、「ゴル」で右が引っ張る。最初はゆっくりでいい。恋愛と同じで最初から鼻息が荒いとろくなことがない。

削れた木屑が火切り板の三角形の窪みに溜まるまでは、何をどうしようが火は起こらない。

大人数での火おこしは何かに似ているなと思っていたが、そうだ、お祭りの時の、だんじりを引き回したり、お神輿を担ぐ時のあの一体感と興奮が火おこしにもあるのだ。

「モン」の一引き目で煙が起こった。押さえつける力と回転の力がどちらも高密度である証明だ。「モン」「ゴル」のかけ声と共に火切り棒は高圧のまま回転し、煙がどんどん白くなると共に木屑が溜まっていく。

と、そこで父がラクダ(キャンプ地にいる)の毛を持ち(火おこしに使えるかと思って拾っていた)、三角形の木屑の出口を押さえ始めた。溜まった木屑が流出しないようにと思ってのことだと思うが、父がこれをやった時、絶対に火はつかない。少なくとも僕は父が木屑の出口を押さえて火起こしが成功したところを見たことがない。何より、火おこしは不思議な、少し神聖なもので、それは人間の営みにも似て、その営みの最中に横槍を入れるような父のその行為が僕はあまり好きではなかった。僕は父に「出口押さえるのやめてくれ」と興奮と熱狂の中叫んだ。

ここで思ってもみなかったことが起こった。ラクダの毛が火切り棒の回転に巻き込まれてスプリンクラーのようにぐるぐる周り、溜まった木屑をめちゃくちゃに撒き散らしてしまったのである。これでは火のつきようがない。父は慌ててストップをかけた。

火切り棒の回転は止まり、仕切り直し。

冷静になったところで父に出口を押さえるのをやめるようにお願いし、再び「モン」「ゴル」のかけ声と共にゆっくり火おこしが始まった。

溜まった木屑の温度が高まり、茶色い木屑が真っ黒になって煙が木屑そのものから出始めれば火種はできている。木屑を見ていて、そろそろいい量がたまったと思ったので、スピードアップを父に示唆した。最後の最後一番きついところで思いっきり回転速度をあげることで火は起きる。ずーっと同じ調子でダラダラやっていても火はつかない。恋愛も同じさ。

会場のボルテージが最高潮に高まり、高速の「モンゴル」かけ声に合わせて、回転速度の上がった火切り棒と板から全員咳き込んでしまうぐらいの量の煙が出始めた瞬間再びハプニング。押さえる力がすごすぎてぶっとい火切り棒が真ん中からバキッと折れてしまったのだ。

今まで縄が切れたことはあるが、棒が折れたのは初めてだった。火が起きたかどうか、微妙なところだった。スペアの棒を使ってもう一度かと思ったが、回転が止まったはずの木屑から煙が止まらない。やはり火種はできていたのだ。

父は準備していた、真っ白に乾燥した馬のフンを持ち出した。モンゴルに行く前より、モンゴルでは動物のフンを燃料にすることは聞いていた。せっかくモンゴルに来たのだからモンゴルにあるもので、現地式でやろうというわけだ。

モンゴルの草原に落ちている動物のフンは全く臭くない。乾燥しているものはもちろん、できたてホヤホヤのものからもほぼ匂いがしない。

そして、馬のフンは乾燥に伴い芝生のようにフワフワになっていく。牛のフンは反対にカチカチになっていく。さらに馬のフンは燃えやすいが、牛のフンは燃えにくい、とはこの1週間後、第2班の火おこしで分かったことであった。

父が火種をナタですくい、馬のフンの上に乗せてフーッと息を吹きかけると、炎こそ出ないがジリジリと黒く燃焼が広がり、それと共にお香のようないい匂いが漂い始めた。遊牧民はこの匂いが大好きで、いつまでもこの匂いを懐かしむと言う。

それを最初に聞いた時、本当は臭いのをユーモアを交えていい匂い、と表現してるのかと思ったがそうではない。モンゴルの大草原の馬のフンを燃やすと本当にクセになるような素晴らしく香ばしい匂いがするのだ。

馬のフンで火種を包み、父はそれを草で編んだカゴの中に入れた。カゴには木の枝とダンボールがすでに入っており、その中に馬のフンに包まれた火種を置いたあと、カゴごとぐるぐる回して酸素を送って炎を起こす。それがいつもの我々の火の起こし方だった。父によると元はアフリカのピグミー族のやり方らしい。

ここまでくればあとは火口(ほくち:燃えやすいもの、火を拡大させるもの)に、シュロの木の皮があれば、もう99%火おこしは成功である。が、火口に適当なものが見つからない場合、皆の注目と期待の最中、カゴを回しても回しても火がつかないという地獄の時間が訪れる。

馬のフンが果たして適当な火口となり得るのか。見ものだったが、父がカゴを回したそのひと回し目で火花が見えた。見ていて「あ、これはいける」と思った。そしてものの20秒ほど回すと、見事に炎が上がった。

僕は感動した。本当に馬のフンて燃えるんだ。

父はカゴをキャンプファイアーの隙間から中に入れ、キャンプファイアーは盛大に燃え始めた。カラマツは油分を含んでいるのか、非常によく燃えたし、火力が強い割に長持ちした。

めちゃめちゃ燃えた。

火おこしさえ成功すればもういい。我々の仕事は終わった。あとは自由に歌うなり踊るなりしてくれればいい。それは我々の仕事ではなく、参加者側がプログラムしてやることだ。

そう思っていたのだが、ここで再度ハプニング。音楽をかけて歌って踊り始めたのはいいが、参加者の用意したBluetoothの大きめのスピーカーの充電が切れてしまい、音が出なくなってしまったのだ。

場はシーンとして、あらら、どないしましょと思うが早いか、父が「それではモンゴルの皆さんと一緒に友達の歌を歌いましょう」と声を上げ、「かたーい絆に、おもーいを寄ーせて〜」といきなり長渕剛の『乾杯』を大声で熱唱し始めた。
なんで『乾杯』やねん。

友達の歌に『乾杯』がふさわしいのかどうか、考える間もなく参加者も雰囲気に飲まれ、口々に乾杯を歌っていく。そう、スピーカーが使えない以上、歌うしかないのである。

こうしてモンゴルの学生さんたちが「これが日本の友達の歌…」と生暖かい目で見守る中、日本人80名による『乾杯』の大合唱がモンゴルの大草原に響き渡った。

乾杯をサビまで歌ったところで拍手が巻き起こり、父は見たことないぐらいの満足げな顔をしていた。多分、友達とか何とか関係なくて、彼はただ『乾杯』が歌いたかっただけなのだと思う。

『乾杯』のアンサーソングにモンゴルの皆さんが、モンゴルの歌ってくれた。静かな歌で、幼い頃大分の無人島で聞いた歌に似ていた。

それに答えて日本の皆さんが『見上げてごらん夜の星を』を歌う。
あとはあまりよく覚えていない。夜12時ぐらいまで歌の交換は続いたのだと思う。

今日の終わりに、スピーカーの充電が切れてかえって良かったかもしれないな、と僕は思った。