ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

毎日のルーティン

毎日のルーティンが欲しい。

前回の日記でも似たようなことを書いたが、毎日の心を安定させるために、ルーティンが欲しい。

正式に金をもらってる仕事としても今2つ持っている。毎日は同じようにはいかない。そしてランダムに、連続的にやるべきことが発生する子育てもある。それに夏や冬のキャンプの仕事をからめるともうめちゃくちゃだ。何を自分の足場としていいのか、毎度その基礎がわからなくなる。

だから、自分が何かとんでもない暴風雨に巻き込まれて、まるきり予想だにしないところへ飛んでいったとしても、自分が何だったのか、何を喜びとしていた人間だったのか、わかるようにルーティンが欲しい。

日記やブログは、ルーティンと言えばそうなのかもしれないが、毎日というわけではないし、逆に毎日にしてしまうとその本質的なところ、つまり「文を書くのが好きだ」というところが損なわれてしまうから(それはもう体験的に僕はそうなのだ)、努めて「毎日」ということにはしない。

それ以外で、毎日できそうなもの。と言ってその負荷があまりに軽すぎると何の意味もなくなる。毎日やるために毎日やる、というのではあまり意味がない。

「続けることに意味があるから負荷は軽い方がいい」
どこかで見たその文言も若い頃から嫌になるほど試してきた。なるほどそれはその通りかもしれないが、負荷が軽すぎると充実感を得られず、こんなことを続けて何の意味があるんだろうか、となる。そして僕は毎度続けることをやめる。続けることに意味がある、とはそこに楽しみや苦しみや充実感が伴って初めて生きる言葉だろう。それがなければ0を積み重ねているのと同じなのだと思う。すなわち虚無だ。

だから時間にして5分10分で済むことではなく、少なくとも20分ほどかかることで、割とどこでも(無人島でも)できることで、それもちょっとでも楽しいと感じられることが毎日続けられたなら、それは良いルーティンだと僕は思う。

何かそういうものは無いだろうかと考えて、絵を描くことがそうかなあ、と思ったけど、毎日何かの絵を、というのは簡単そうでやってみると多分地獄のように難しいから(だって毎日描きたいものを見つけないといけない)、それはちょっと保留にした。それに、もしそういうものをルーティンにするなら、子と一緒の方が楽しいんじゃないかという気もする。

文や絵や、即物的なものは置いといて、自分は毎日何がしたいかなと考えた時に、「毎日を考える」ことがしたいのではないかとふと思いついた。

朝ギリギリに起きて、朝飯も食わずに家を飛び出して、電車に揺られて、思考停止したまま仕事が始まって、帰って子どもの面倒見るのに追われて酒飲んで寝て、そういう思考停止した無軌道な生活を何とかしたかったのだと思う。
子育ては暴風雨みたいなものだからどうしようもないのはわかっているんだけども、それでも毎日を何とか整えたいという気持ちは常にあった。

「今日は一日どうすっぺな?」と考える時間が欲しかった。たとえその後むちゃくちゃになって、考えた日とまるで違う一日になったとしても、考える時間が欲しい。毎日に整理をつけたい。

その上でどうしようもなかったというのは良い。それならいくらでも諦められる。何も考えられないまま毎日に引き摺り回され「今日も何もできなかった」と後悔を抱えて眠る方がよっぽど問題だ。そいつは後を引く。

だから毎日をよく考えよう。それだけでいい。その上でさらに欲張れるなら、その日意地でもやることを一つだけ見つけよう。そうしてさらに欲張れるなら、机の上を毎日拭こう。毎日拭ける状態に机の上をしておこう。
友人がこの土日に来てくれたおかげで、やっと家が片付いて、そうして初めて引っ越してからこれまで家が片付いてないことが気にかかって何も手につかなかったのだと気づいた。僕は部屋や机の上が片付いてないと太い釘が心に刺さったままのようになって、物理的にも精神的にも動けなくなってしまうようだ。

その3つぐらい毎日できれば十分なんじゃないかな。