ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

失敗はイヤだ

失敗はイヤだ、嫌いだ。
本心からそう思う。

僕は割と幼い頃からちやほやされて育ってきた方なので、特に失敗に対する免疫が低い。
僕が何かしらの働きかけを世に対して行って、それに対しレスポンスなく、流されてしまう。あるいは黙殺される。
失敗した、と僕は思う。どうして認められないのだろうと、時に腹立ちに似た気持ちを覚えることもある。規定のことを規定通りに行って、規定通りの評価を得てきたものは、何も定まってない海に放り出された時に何をどう対処していいのか分からなくて、もがいては溺れる。
そういう状況が長く続くとだんだん辟易としてきて、何か書いても世に出さないで自分だけで楽しめばいいじゃん、とかあまり健全ではないことを考え始める。

だけど力を抜いて周りを見渡してみたときに、輝いている人は皆僕の何倍もの失敗を積み重ねてきたのだと気付いた。こうなりたい、こう生きたい、そういうものがあって挑戦して失敗する。どうすればよいのかと考えて、再び挑戦して失敗する。その繰り返しの量が僕は圧倒的に少ない。

加えて、僕が失敗だと思っていたことは失敗にすらなっていなかったとも感じる。例えば漫画を描いて色んな媒体に載せる。それはどういうつもりなのだろうか。本人は本人が楽しんでいるのだからそれでいいと思っているかもしれないが、実際のところは何かしらの虚しさが残る。それを失敗だと感じるのだが、僕にはこうなりたい、こう生きたいという明確なビジョンもないのだから、それは実際のところ失敗でもなんでもない。つまずいても、転んでもいない。僕は挑戦していないのだから失敗することはそもそも不可能だ。


僕は沖にすら出ていなかった。浅瀬でパシャパシャと水遊びのようなことをやって、沖に出て溺れたり、もがいたりして堂々と戦っているものをうらやんで。やっていたのはそれだけだ。

僕は実際のところどうなりたいのだろう。どう生きたいのだろうか。物書きとして生きたいのだろうか、それとも物書きに憧れ続けたいのだろうか。生活を隠れ蓑にしてそこんところをずっとあやふやにしてきた。だけど、いい加減な気持ちでは、ずっとこのままの状況が続くだけだ。それで、ずっとふてくされているのか?

「本当に」そうなろうとする覚悟がなかった。覚悟のないものの行動に挑戦も失敗もない。
僕は挑戦しないまま終わりたくはない。認められないなら認められないで、黙殺されるのではなく、思いっきり否定されたい。

天は自らを助くるものを助く。