ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

真面目と不真面目

不真面目は真面目には勝てないのだ。持ってうまれた能力だけで勝負できる若き日はあっという間に過ぎ去る。後に残る時間は、不真面目の要領かましにはあまりにも残酷だ。
「真面目にコツコツ」それは不真面目な人間からすると、とんでもない離れ業に見える。その業が、二十歳を超えて顕在化するとき、不真面目な人間はただただ絶望するほかない。己の無駄にしてきた時間と、真面目な人間が積み重ねてきたものに。

僕はファーブルのような人間を尊敬する。ファーブルのような人間に圧倒される。

大学時代、ファーブルのような人間に出会った。彼は僕より年下で、名をアダチ君といった。いつも静かだったアダチ君は、いかにも目立たないタイプだった。高校の時、もしアダチ君とクラスメイトになったとしても、恐らく友だちにはならなかっただろう。暗い奴、とバカにしていたかもしれない。僕の方がよっぽどゴミクズみたいな高校生だったにも関わらず。
しかしそのアダチ君は、静かな装いの中に、とんでもなく熱く素晴らしいものを持っていた。彼にはファーブルのように好きで好きでどうしようもないものがあった。それを幼い頃からコツコツと磨き上げてきたに違いない。大学に入る頃にはそれは他の人間とは比すべくもない、彼だけが持つ宝物になっていた。僕より遅れて僕と同じゼミに入ってきた彼はメキメキと頭角を現した。その宝物が周りに認められ、日の目を見る機会がやってきたのだ。しかしアダチ君は周りがどれだけ騒いでも相変わらず静かなままだった。ゼミの教授はアダチ君を絶賛した。

生来の能力だけで世の中を渡り、それでうまくやっていけてると、図に乗っていた僕の鼻をへし折るには十分過ぎるくらいアダチ君は鮮烈だった。真面目にコツコツ築き上げたものの持つ凄み、恐ろしさのようなものをアダチ君から感じた。彼に圧倒されると同時に僕は彼を畏怖した。そして当然彼と自らを比較した。アダチ君の持つものに比べて、自分の持つもののなんとちっぽけで、惨めで、中途半端なことだろう。それはまるで未熟なまま成長止めてしまったヒルコのようだ。
アダチ君の書いた卒業論文は学部全体の優秀卒業論文に選ばれた。彼はその栄誉を手に卒業し、そのまま二度と彼と会うことはなかった。どうしようもない敗北感だけが僕に残った。

アリとキリギリス、ウサギとカメ、寓話になってるぐらいだから古来より真面目と不真面目の考察は随分とされてきたのだろう。その決着もついている。だけど、勝てないと悟ったキリギリスは、ウサギは、その後どうすればいいんだろう。圧倒的な差が、どのようにしても追いつけない差が、彼我の間に横たわっていることに気づいた時、一体どうすればいいのだろう。僕のように茫然としたあと、今さらカメにはなれないと、その辺で道草食ってるのは良い手ではない。

カメをバカにしたようなウサギの光景を学校でもよく目にする。まるでそんなもの歯牙にもかけないと言わんばかりに鼻をならすウサギたちはあまりに多い。彼らは自らのことを希少で貴重なものだと考えがちたが、それはまるで逆だ。カメのような存在はこの世ではあまりに少ない。代わりに中途半端なウサギは吐いて捨てるほどいるのだ。そのことを授業で伝えようと思ってもウサギたちは聞く耳を持たない。寓話の通り眠ってしまっているのか。そのまま眠ったままでいられるなら幸せなのに。

途中で目覚めてしまったウサギは、やっぱりそれでも全力でカメを追うのが本当なんだろう。カメになれなくとも、カメに憧れるのが本当なんだろう。
だってそうでなくては、目覚めた意味がない。