ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

ルソー著『エミール』を読む

かつてまだ僕が教員採用試験をマジメに受けてた頃、試験には教職教養と一般教養の科目があった。
教職教養の問題には頻出の著書があり、それがルソーの『エミール』だった。恐らく教壇に立ったことのある人なら一度は耳にしたことがある本だと思う。試験では、ルソーの書いた『エミール』は「教えない」教育、という事柄だけ知っておけば良かった。

僕は三度ほど教員採用試験を受け、箸にも棒にもかからんので、正式採用の道は諦めてそのまま不良講師になった。最初に赴任した学校ではてんで知らない倫理を教えることになり、たまたまルソーを扱う機会を持った。その時に僕はルソーという人に興味を持ち、それで多分いつかどこかで聞いたエミールを読んでみようと思ったのだと思う。

読んでみると驚きの連続だった。ルソーは18世紀の人でエミールも250年ぐらい前に書かれた本なのに、現代と全く同じ教育の問題、不条理について考えられてあった。どれだけ科学技術が発達しようと、人間の成長に関する問題は今も昔も変わらないのだ。

ルソー自体結構めちゃくちゃな人で、幼い頃に下半身丸出しで村の女の子を追っかけ回して逮捕されかかり「お尻を叩いて欲しかったんだ」と変態丸出しの釈明をしてみたり、子どもを作っては次々に孤児院送りにしたりした。その数実に5人。そんな人間が何をえらそうに教育について語っとんねん、という話もあるが、しかし僕はルソーがそういう人間だったからこそ興味を持った。世の中で失敗してない人間ほど信用の置けないものはない。ルソーも若い頃してしまった取り返しのつかない失敗を、それでもなんとか取り返そうとしてこのエミールを書いたのではないか。そんな願いのようなものが文章からひしひしと伝わってくる。でなきゃ250年も後まで残ってない。

僕自身は、日本の教育は崩壊に向かっていると現場にいてて感じるが、このままではあと100年もたないだろうと思うが、それでもこの本があればそれも何でもないように感じる。原初に立ち返ればいいと思える。エミールは教育の本質を丸裸にしてしまっている。

「教育著書」なんて狭い範囲ではとても捉えられない、僕には生き方に影響するぐらいすさまじい本だった。
人間の成長や教育に関心がある人には上巻だけでも是非読んで欲しいと思うが、非常に影響力の強い本で劇薬だとも思う。特に教員をしている人には刺激が強すぎて、下手をすると教員を辞めてしまうかもしれない。
「先生になりたい!」と目を輝かせて教員になった人の頭を鈍器で思い切り殴るような、そんな本だ。はっきり言ってなぜこの本が教員採用試験で頻出で出てきたのか今もって謎である。ちゃんと読んだことあるのかと思ってしまう。
まあこの時代に先生をしているなら多かれ少なかれ現場で頭を殴られ倒しているだろうが。もしかしたらエミールはそんな先生の、あるいは親御さんの悩みを解決する緒になるかもしれない。


以下、備忘録的に僕がエミール上巻で好きなところを少しの感想とともに抜粋して載せる。少しでもエミールに興味を抱く人が増えたなら幸いである。

「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか」
(以下、岩波文庫の『エミール』より引用)

人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間は乗馬のように調教されなければならない。(P27)

自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であってその共通の天職は人間であることだ。(中略)生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。(P38)

人生のよいこと悪いことにもっともよく耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。(P38)

金言。その通りだと思う。

わたしたちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。わたしたちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態のうちに生まれ、生き、死んでいく。生まれると産衣にくるまれる。死ぬと棺桶に入れられる。人間の形をしているあいだは、社会制度にしばられている。(P41)

子どもを自然の法則からまぬがれさせようとして、苦しいことを子どもから遠ざけ、すこしばかりの苦しみから一時まもってやることによって将来どれほどの事故と危険を子どもにもたらすことになるか、弱い子ども時代をいつまでもつづけさせて大人になったときに苦労させるのは、どんなに残酷な心づかいであるかを考えないのだ。テティスは息子を不死身にするために、ステュクス(冥府の川)の水に漬けたと伝説は語っている。(P51-52)

ルソーの言を借りると公教育そのものが子どもを苦しみから遠ざける手段となっている。

あなたがたは自然を矯正するつもりで自然の仕事をぶちこわしているのがわからないのか。(P53)

ルソー節にしびれる。

わたしたちは子どもの気に入るようなことをするか、わたしたちの気に入るようなことを子どもにもとめるかする。子どもの気まぐれに従うか、わたしたちの気まぐれに子どもを従わせるかする。(中略)子どもは命令するか、命令されなければならない。だから子どもが最初にいだく観念は支配と服従の観念である。(中略)そして最後に、奴隷であると同時に暴君であり、学問をつめこまれていると同時に常識をもたず、肉体も精神も同じように虚弱なこの子どもは、社会に投げだされて、その無能ぶり、傲慢ぶり、そしてあらゆる悪癖をさらけだし、人間のみじめさと邪悪さを嘆かせることになる(P55-56)

自分がウサギだと思っている生徒はあまりにも多い。カメにもウサギにもなれないのに。社会に出る段になってそのことに気付くのは残酷だ。

世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される。才能が熱意に代わる以上に、熱意は才能に代わることができるはずだ。(P56)

エミールの中で一番好きかもしれない一節。僕もどんな先生よりも父親に教えてもらいたかった。ルソーの悔恨も垣間見える。

きみが子どもにあたえるのは、先生ともいえないものだ。それは下僕だ。その下僕はいずれもう一人の下僕を育てあげることになる。(中略)教師! ああ、なんとういう崇高な人だろう……じっさい、人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。そういう仕事をあなたがたは平気で、金でやとった人間にまかせようというのだ。(中略)よい教師の資格が完全にわかっている父親は、教師などやとうまいと決心するだろう。(P58-59)

高校で勤務していてもまるでベビーシッターのようだと感じることがある。下僕、その通り。
「先生になりたい」それは平気で生徒の父親以上の、そして神以上の存在になりたいと発言していることになる。これ以上ない、あつかましい発言。

一方、貧乏人は自分の力で人間になることができる。(P67)

Right。生きることをまず考えなくてはならないから。

先になると別れることがわかってくると、おたがいに他人になる時期が見えてくると、かれらはすでに他人なのだ。二人ともそれぞれの狭い世界にとじこもり、一緒にいなくなるときのことばかり考えて、一緒にいるのはいやいやながらということになる。(中略)先生は弟子をただ、はやく肩からおろしてしまいたい重荷のように考える。かれらはいずれも、おたがいにやっかいばらいをする時を待ちこがれる。(67-68)

THE・日本の先生と生徒。耳が痛いっすね。

肉体は弱ければ弱いほど命令する。強ければ強いほど服従する。(P70)

魂に対して。

教師はただ、自然という主席の先生のもとで研究し、この先生の仕事がじゃまされないようにするだけだ。(P87)

他人の手で行動するというのは、さらに、舌を動かしさえすれば世界を動かすことができるというのは、どんなに愉快なことであるかを知るには、それほど長い経験を必要としない。(中略)命令したいという欲望は、それを生じさせた必要とともに消え去るものではない。支配は自尊心を呼び覚まし、それに媚び、さらに習慣が自尊心をつよめる。こうして気まぐれが必要に代わり、こうして偏見と臆見が最初の根をおろす。(P105-106)

ルソーは再三再四、子どもを支配者にも奴隷にもしないよう注意を呼びかけている。自らの力を把握させること。

子どもはよけいな力をもっているどころではない。自然がもとめることをみたすのに十分な力さえもたないのだ。だから、自然によってあたえられたすべての力、子どもが濫用することのできない力を十分にもちいさせなければならない。(中略)子どもを助けてやる場合には、じっさいに必要なことだけにかぎって、気まぐれや理由のない欲望にたいしてはなにもあたえないようにすること。(P106)

ここもそう。己の力を勘違いさせない。

不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか。こどもにあらゆる束縛をくわえ、遠い将来におそらくは子どもが楽しむこともできない、わけのわからない幸福というものを準備するために、まず子どもをみじめな者にする、そういう教育をどう考えたらいいのか。たとえ、そういう教育が目的においては道理にかなったものだとしても、たえがたい束縛をうけ、徒刑囚のように、たえず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。快活な時代は涙とこらしめとおどかしと奴隷状態のうちにすごされる。あわれな者は、自分のためだといって苦しめられる(p130)

僕らが生徒に加えていることがどういうことか、本質をえぐり出す一節。

わたしたちをたえずわたしたちの外へ追いだし、いつも現在を無とみなして、進むにしたがって遠くへ去って行く未来を休むひまもなく追い求め、わたしたちを今いないところに移すことによって、けっして到達しないところに移す、あのいつわりの知恵。(P132)

それそれぇ!

さらに、あなたがたがなおしてやるという悪い傾向は、自然から生じるよりもむしろあなたがたのまちがった心づかいから生じているのではないことを、どんなふうに証明してくれるのか。(P133)

もうやめて!私のライフは0よ!

それはただ、能力をこえた余分の欲望をなくし、力と意志とを完全にひとしい状態におくことにある。そうすることによってはじめて、いっさいの力は活動状態にあり、しかも心は平成にたもたれ、人は調和のとれた状態に自分をみいだすことができる。(P135)

人間の理想的な状態。僕はずっと力もないのに意志ばかり先行していた。37歳になって少し調和がとれるようになってきた。

必要以上の力をもつものは昆虫、虫けらでも強い存在だ。力を超えた欲望をもつものは象、ライオンでも、征服者、英雄でも、たとえ神であろうと、弱い存在だ。(P137)

若い頃の自分。ザコ中のザコ。

人間のようなかりそめの存在がめったにやってこない遠い未来にたえず目をやって、確実にある現在を無視するとは、なんという妄想だろう(P141)

映画『今を生きる(seize the day)』。

経験、あるいは無力であること、それだけが掟に代わるべきだ。(中略)子どもは行動するとき、服従するとはどういうことかを知ってはならない。子どものためになにかしてやるとき、子どもは支配するとはどういうことかを知ってはならない。子どもは自分の行動においても、あなたがたの行動においても、ひとしく自由を感じなければならない。(P149)

中略前の一文はエミールの核。

ほしいといえばなんでも手に入る子どもは、自分を宇宙の所有者と考えるようになる。かれはあらゆる人間を自分の奴隷とみなす。そして最後に相手がなにかことわらなければならなくなると、自分は命令しさえすればなんでもできると信じているかれは、その拒絶を反逆行為と考える。道理を考えることのできない年齢にある子どもに言って聞かせるいっさいの理由は、子どもの考えでは、口実にすぎない。かれはあらゆる人のうちに悪意をみとめる。これは不正だという考えが、かれの天性をゆがめる。かれはすべての人に憎しみをもち、いくらきげんをとってもうけつけずあらゆる反対にたいして腹をたてる。(中略)そんな子が幸福だとは、とんでもない。それは専制君主だ。だれよりもいやしい奴隷であるとともに、だれよりもみじめな人間だ。(P155)

映画『千と千尋の神隠し』。

まことに奇妙なことに、子どもを教育しようと考えて以来、ひとは子どもを導いていくために、競争心、嫉妬心、羨望の念、虚栄心、貪欲、卑屈な恐怖心、といったようなものばかり道具につかおうと考えてきたのだが、そういう情念はいずれもこのうえなく危険なもので、たちまちに醗酵し、体ができあがらないうちにもう心を腐敗させることになる。子どもの頭のなかにつぎこもうとする先ばしった教訓の一つ一つはかれらの心の奥底に悪の種をうえつける。無分別な教育者は、なにかすばらしいことをしているつもりで、善とはどういうことであるかを教えようとして子どもを悪者にしている。(中略)初期の教育はだから純粋に消極的でなければならない。それは美徳や心理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬からまもってやることにある。(P166-172)

人は子どもを子どもにしようとはせず、博士にしようとしているので、父親や先生は、しかったり、矯正したり、文句を言ったり、きげんをとったり、おどかしたり、約束したり、教えたり、道理を説いて聞かせたりすることを、どんなにはやくはじめてもはやすぎないと考えている。(P172)

時間のもちいかたをあやまることは、なにもしないでいることよりもっと時間をむだにすることになるということ、そして、へたに教育された子どもは、ぜんぜん教育をうけなかった子どもより知恵から遠ざかることが、あなたがたにはわからないのだ。(P210)

ルソー先生、未来が見えてるんですか?

子どもに強制的にそれを学ばせるからだ。子どもになに一つ理解できないことにそれを用いさせるからだ。子どもというものは自分の身を苦しめるような道具を完全なものにすることにそれほど好奇心をもつ者ではない。(中略)さしせまった利害、これが大きな動機だ、確実に上達させる唯一の動機だ。(P238-239)

子どものころに考える習慣をつけておかないと、その後一生のあいだ考える能力をうばわれることになる。(P241)

眠ったままの生徒は多い。恐らくよっぽどのことがない限り一生眠ったままだという生徒が。

かれはなに一つ暗記していないが、経験によって多くのことを知っている。ほかの子どもにくらべて書物をそれほどよく読めないが、自然という書物はもっとよく読める。かれの才気は舌のうえにはないが、頭のなかにある。かれは記憶力よりもむしろ判断力をもっている。(中略)ほかの子どもが話すようにうまく話せないが、そのかわり、ほかの子どもがするよりもよくなにかすることができる。(中略)生まれたときから必然のくびきをうけているから、それにすっかりなれきっているのだ。かれにはいつでもあらゆることにたいする準備ができている。(P357-361)

ルソーの教えるエミールの成長した姿。このような特徴を持つ生徒は実際非常に賢いと感じる。

わたしたちのむなしい学問のおかげでその不幸な少年の周囲になんという深淵が掘られていくのをわたしは見ることか。(中略)無知はけっして悪を生みださなかったこと、誤謬だけが有害であること、そして人はなにか知らないためにではなく、知ってると思っているために誤ること(P372)

世界のほかにはどんな書物も、事実のほかにはどんな授業もあたえてはならない。読む子どもは考えない。読むだけだ。かれは知識を身につけないで、ことばを学ぶ。(中略)子どもに理解できない話を子どもにしてはならない。描写、雄弁、比喩、詩は無用だ。(P375-378)

わたしの教育の精神は子どもにたくさんのことを教えることではなく、正確で明瞭な観念のほかにはなに一つかれの頭脳にはいりこませないことにある。

とっても正しいと思う。

わたしたちの道具が巧妙になればなるほど、わたしたちの器官は粗雑になり不器用になる。身のまわりにやたらに器械を寄せ集めているうちに、わたしたちは自分のうちに器械をみいだせなくなってくる。(P400)

なぜ、こんにちかれにふさわしい勉強をやめさせて、かれが到達できるかどうかまったくおぼつかない時期の勉強をさせるのか。しかし、とあなたがたは言うだろう、実践する時になってしっていなければならないことを学ぶのは時宜をえたことだろうか。わたしにはわからない。ただ、わたしにわかっていることは、もっとはやく学ぶことはできない、ということだ。(P405)

「それはなんの役にたつのですか。」これが今後、神聖なことばとなる。わたしたちの生活のあらゆる行動においてかれとわたしとどちらが正しいかを決定することばとなる。(中略)わたしの理由を生徒にわからせることができなければ、こちらがわるいとみとめることにしたい。(P406-408)

それは現代においても神聖なことば。そのことばに基づくことができればどれだけいいだろう。生徒にそれを問われて、屁理屈ではなく生徒を納得させられる答えを持つ先生がどれだけいるだろう。僕にはとても答えられない。

実物! 実物! わたしたちはことばに力をあたえすぎている、ということをわたしはいくらくりかえしてもけっして十分だとは思わない。わたしたちのおしゃべりな教育によって、わたしたちはおしゃべりどもをつくりあげているにすぎない。(P410)

ありがとうルソー先生。実物、経験、必然はエミールの根幹。


以上足早でルソーの『エミール』上巻を駆け抜けた。上巻だけでもまだまだたくさん好きな文章はあるが、さすがに疲れてきたのでここまでとしたい。
もし一節でも、最後まで読んでくれた人の心に刺さることばがあれば、嬉しいです。

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)