ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

誰がために君は書く?

ずっと自分のために書いていると思っていた。

だけど、いつの間にかただ書くためだけに書いていたようだ。

自分のためではなく、かといって誰かのためではなく、だだ書き続けていれば何かいいことがあるだろうと、いつか書いたものが認められて、人からスゴイスゴイと言われて、金がガッポガッポ入って、そんな風になるんだろうと思って書いていた。

文章から自慢気なニオイが漂ってくるのは、とにかくオレはスゴイんだから早く認めろと、そういうのがにじみ出ている証拠だろう。誰がそんな虚栄心の塊みたいな文章を読みたいものか。

だからもう一つ付け加えるなら僕は見せびらかすために書いていたということになる。誰も見ないのに。

そんなことに3年もこのブログをやっていて気づかなかったのだ。
このブログでスターを付けて頂いたり、実生活で読んでくれる友人から面白いと言ってもらえたりして、僕は全く勘違いしていた。

勘違いして、週一回必ずブログを更新しようと決めてからさらにおかしくなり始めたのかな。
無理矢理書いたようなものも、高慢ちきなものも誰も喜ばない。自分自身も含めて。
自分が喜んで書いてないものを誰かが喜ぶはずもない。

ブログを始めたのは書くのが好きだったからだ。そこにもう一度戻りたい。書きたいと思ったものを書きたい。それで誰かが喜んでくれるならそれだけで最高じゃないか。
僕はありもしない自らを追い求めたのだ。きっとそれをつかんだところで喜びはなかっただろう。


ブログではよく「誰かの役に立つことを書け」と言われる。なんだか僕はその言葉に反発を覚えて、支離滅裂、虚栄心丸出しのことでも書いてきたのだけれど、「役に立つ」ではなく「喜びになる」と言い換えられるなら深く納得できる。自分も含めて「誰かの喜びになる」なら是非とも書きたいと思う。

ブログをやっている人や、漫画を書いている人や、芸術家と呼ばれる人や、先生や、料理人や、サラリーマンや、ありとあらゆる人が皆そのことにとっくに気づいて、誰かの喜びのために日々やっているのだと思うと、すごいなあと参ってしまう。何万歩も先を歩かれている気分になる。

僕がここに書いたもので誰かの喜びになるものはあったかなあ。僕が喜んで書いたものはもちろんいくつもあるけれど。

「いつか到達するべき(あるいは到達していると勘違いしている)崇高な自分のため」ではなく、今の僕が楽しんで書けて、誰かの喜びになるもの。そういうものが書ければ嬉しい。
変な言い回しになるけど、自分の書いたもので誰かが喜んでくれるなら自分なんてどうだっていいじゃん。

ずっとなぜだか否定しようとしてたけど、誰かの喜びが自分の喜びになるということもたしかにあるんだ。