ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

友人家族と湯河原へ

5月12日〜13日の間、我々含め計4家族(いずれも高校時の友人)で湯河原へ旅行をした。備忘録をここに残す。

5月11日はY氏家族だけが我が家に前泊した。
Y氏は謂わゆるお金持ちで、家にはエレベーターが付いており(確か5階まであった)、常に大型犬と数匹の猫が飼われ、Y氏のお家に遊びに行くと、ビンに入ったジュースとお皿に乗ったメロンが出てきて、さらにお風呂に入らせてもらうとライオンの口から湯が出てくるというので、高校時分に遊びに行ったツレはもれなく度肝を抜かれ、這う這うの体で帰らされる、そういうご家庭の御曹司がY氏なのである。

そのY氏だけがうちに前泊に来るというのは、都合の良かったのがY氏家族だけ、ということもあったのだろうけど、Y氏の奥様がこのほど妊娠し、我が家には幼子が2人いるので、その様子を参考に見ておきたいということもあったのかもしれない。

Y氏夫妻は17時頃湘南に着いた。長男の春ちゃん(3歳3ヶ月)を車に載せ(諸々の都合でそうなった)、車で駅まで迎えに行った。春ちゃんはそれまで活きの良かったのが、Y氏夫妻が車に同乗すると一気に緊張したようで、その後家に着くまで車の車種名以外、ついに一言もしゃべらなかった。晩御飯にはまだ早かったので、ちょっと足を伸ばして江の島を見に行くことにした。海沿いを走り、湘南の地を大阪から来た二人に説明する。
「もうすぐしたらこの辺りの男は全員上裸になる」と説明をした矢先、上裸で歩いている男性がいてそのあまりのタイミングにY氏は言葉を失うほど驚いていた。僕は、
「ほらな。湘南の夏、男は上裸、筋肉、タトゥーじゃないと人権が認められへんのや」
と鬼の首を取ったようになってさらなる説明を加えた。

江の島に入ると対向車にスープラがいて春ちゃんが「スープラ!」と叫んだ。彼は前からでも後ろからでも最新型スープラを判別できる。
Y氏夫妻は江の島は初めてのようで、「ほう、これが…」と楽しんでくれたまでは良かったのだが、週末の江の島を僕の方がナメており、江の島に車で入って出るまでに30〜40分ぐらいかかった(平日なら5分)。途中、神奈川に移ることになった経緯などを説明した。

18時過ぎにうちに到着。少しゆっくりして、皆で近くの安いレストランに向かう。やはり土曜日は人が一杯で席に着くまで30分ほど待つことになった。そこは我々が湘南に移ってから初めて気に入ったレストランで、是非Y氏夫妻にもその味を体験してもらいたかったのだが、喜んでいただけたかどうか…。
メニューから注文を決める段階で、Y氏夫妻の間でピザの種類や大きさをめぐって青い炎のような静かなバトルがあり、割と気を違う性質の僕は見ていてハラハラした。

その後酒も入り、話も弾んだところで先の青い炎が気になっていた僕は「二人はケンカとかする?」と軽めのジャブを打ったが答えは「しない」。
してみるとさっきのはケンカでは無かったのか。僕の基準ではさっきのはあからさまなケンカなのだが…と夫婦によりケンカの基準が違うことを認識した。
まあ、どちらかと言うとガンコなY氏を納得させるためにY氏奥様が弁舌を尽くし、それでも頑として聞かないY氏を第三者からの横槍が納得させてしまうという図式(この場では我々)で、この図式はこの先旅行中何度も目にすることになる。つまりケンカというよりは奥様によるY氏の説得、指導、あるいは啓蒙と言った方が近いのかもしれない。

会計の段になって、とりあえずY氏が払ってくれたので、お金を渡そうとすると断られた。「宿泊代や」と全おごりの様子。幾らかでも渡そうか、いやしかしそれではかえって失礼になるのかも…、などという逡巡もあったのかなかったのか、学生時代からY氏に幾度となくおごられ続けている僕は(「パチンコ久々に行ったら20万勝ったから」と理不尽な酒のおごられ方をしたこともある)、甘んじてその申し出を受けることとした。ワイン、デカンタでガブガブ飲んですみません。

家に帰り、さらに酒を飲み就寝。子供達は随分Y氏夫妻に懐いて、特に長女のRYOちゃん(次子:1歳半)はY氏の奥様へ幾度となく抱きつき、付きまとい行為を繰り返していた。よく考えてみれば我々の二人の子はあまり人見知りをしない。それでも、これだけ懐くのは珍しかった。妊婦さんからは何か安心感の波動のようなものが出ているのだろうか。Y氏も全く攻撃的なタイプではなく、怒っているところを見たことがない。子供と動物に好かれる人間に悪人はいないと言う。大飯ぐらいに悪人はいない、とも。
この後僕は一人で机に突っ伏して寝て、嫁さんに起こされるも起きず、その後何を考えたのか布団ではなくソファに横になって、深夜3時頃ようやく嫁さんと子の眠る布団に潜り込んだ。多分、何とかして風呂に入ろうと悪あがきしてたのだと思う。

翌朝は近所のパン屋さんに僕と春ちゃんで朝食の買い出しに行った。パンが大好きな嫁さんの舌を唸らせたパン屋である。そこのパンも是非食べて欲しかった。
惣菜パンを諸々買って帰ったが、Y氏夫妻は朝食を普段食べないようでちょっと無理して食べていたような気がする。申し訳ないことをした。

9時半頃Y氏夫妻を最寄りの駅へ送り、Y氏夫妻は電車で湯河原へ向かう。本当は我々と一緒に車で行けたら良かったが、残念ながらうちの車は4人乗りの軽自動車だ。我々一家は10時15分頃車で湯河原駅へ向けて出発した。

11時30分、4家族の最初の集合場所である昼食場所に到着。結果的に我々が一番早く、次にこのブログの支援者であるT氏夫妻が到着した。4家族一気にお店には入れないとのことだったので、我々とT氏夫妻が先にお店に入ることにした。お店は海の見えるお座敷で、畳の広間に8枚の木の板がテーブルとして置かれており、我々は一番奥の海の見えない側の木の板に案内された。こいつぁやべえ。本当に畳の上に直接厚さ10cmぐらいの木の板がポンと置かれてあるだけなので、地べたとテーブルがほぼ同じレベル(高さ)にある。

この時点で僕は眠っているRYOちゃんを抱っこ紐で抱っこしていたのだが、このお店ではご飯を食べてる最中は絶対にRYOちゃんを離せないと思った。だってRYOちゃんを解放したが最後、木の板に乗っている料理をめちゃくちゃにしてしまうことは火を見るより明らかなんだもの。ハイハイで木の板に乗ってお皿をちぎっては投げることもできる。歩いて木の板に乗って料理を蹴り散らかすこともできる。こいつぁやべえ…。

しばらく壁に貼られているメニューを見たりしてT氏夫妻と談笑していると、お店の人(中年男性)が料理の説明のためやってきて、突然英語で喋り始めた。我々は呆気に取られ、しばらく英語を喋り続けるそのおっさんを野放しにしていると「あの、早く突っ込んで欲しいんですけど…」とそのおっさんが唐突に英語を打ち切り日本語で言った。ここで我々は初めてその英語がネタ?であったのだと気づいた。T氏が外人寄りの顔をしているので本当に間違えたのか、あるいは外国人のお客さんが多いためとりあえず英語でしゃべることになっているのかと思っていた。

その後の料理の説明も冗談かどうかよくわからん雑念の散りばめられた説明で、ハッキリ言って聞き苦しかった。普通に、丁寧に説明して欲しかった。我々はよくわからん寒い空気を押し付けられるためにここにいるのではない。美味しいご飯を食べるためにここにいるのだ。
接客に冗談が通用するのはそのお客さんとよほど懇意になってからだろう。初見でお客に寒い冗談を連発してくるのは僕の感覚では失礼に当たる。なんでこっちが君らの寒さにちょっと気遣わなあかんねん。もう一度その昼食場所に行こうと思わないのは、あのおっさん(それも2人)の押し付けがましい激寒の接客のせいだ。

我々の注文を取った後、方々のテーブルで繰り返される、2人のおっさんによる一言一句違わぬ台本通りの英語と「あの、早く突っ込んで欲しいんですけど…」の前口上ルーティンに、僕はUSJのジョーズ添乗員の哀しさを見た。
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料理を待っているとY氏夫妻とI氏家族が店に到着し、我々の真横の木の板に案内されてきた。案の定、料理の説明のためやってきた店のおっさんは唐突に英語を喋り始めた。

料理は美味しかったのだと思う。ただ、店のおっさんの前口上ルーティンに辟易してたのと、子供に飯をあげるのに必死すぎてあまり味を覚えていない。RYOちゃんも途中目を覚まし、抱っこ紐の中で暴れ始めたので解き放たざるを得ず、いつ木の板に乗る料理をメチャクチャにしてしまうかと、その動向から目を離せなかったので、飯を味わう精神的ゆとりなどどこにもなかった。まあ、子供を連れての外食がこうなる、ということは分かっていたから、それはいいのだが、それにしてもおっさんの下らん前口上だけがやはり許せなかった。あんなものを喰らっては飯の味などわからなくなる。

我々4家族はそれぞれの思いを胸にその店を後にした。存外、他の家族はおっさんの前口上を楽しんでいたのやもしれぬ。

ホテルのチェックインまでは時間があったので、ホテル近くの公園、というか滝と川の側を通る遊歩道でしばし時間を潰した。ここではRYOちゃんが実によく歩き、階段を降りたり登ったり、坂を登ったり降りたり、足腰を集中的に痛めつけていた。
そこはWi-Fiが通っており、滝あるいは木々から放出されるマイナスイオンを浴びながら仕事をするための机や椅子も用意されていたが、果たしてこのようなところで仕事をする人がいるのだろうか。
僕は川べりに設置された台と椅子を見て、黄コウ出演回のバチェロレッテを思い出していた。

その公園を出たあとはすぐ向かいにある回転スイーツ屋に皆で入った。そこでは水の流れに乗って、スイーツが流れてくるのである。人は何でも思いつくものだ。

どちらかと言うとシュール。

僕はかき氷を食べた。向かいに座る友人は確かハイボールか何か酒を飲んでいて、それを見て一刻も早く僕も酒が飲みたくなり、ホテルに着いた瞬間に酒が飲めるようにその回転スイーツ屋で缶ビールを2本買った。

スイーツをたいらげるとちょうど良い時間になったので、いよいよホテルへ。

車でホテルに着いてみると、どこの王侯貴族が利用するのかというような大変豪勢なホテルだった。
エントランス前に車をつけると御用伺いにホテルマンが出てきて、その場で荷物を預け、その荷物は自動的に部屋まで運ばれるのである。それドラマでしか見たことないやつや。

駐車場に車を停め、ホテルの中に入ると、まるで誰かの結婚式に来たかのような花、調度品、そして池に滝に壺。
そのホテルはY氏がご家族のツテをたどって予約してくれたのだが、普段からこんなところに泊まっているのか…。ロビーで案内を待つ間、僕はビール2本をカッパカッパと飲みながら、僕とY氏の間で生きている世界がまるで二分されてしまったような気持ちになった。その豪華という言葉を正確に抽出しきったようなロビーで缶ビールを飲んでいるのは僕だけだった。

部屋はY氏が3部屋取ってくれており、子供がいる我々とI氏家族に1部屋ずつ、もう1部屋はY氏夫妻とT氏夫妻が一緒に泊まる。部屋の間取りはどの部屋も同じで、つまり2家族が泊まれる部屋が用意されてるはずだったのだが、部屋に入ってみて度肝を抜かれた。
いやこれ3家族楽々泊まれますやん。

バカでかいリビングにL字のバカでかいソファーが置かれており、洋室にはダブル(キング?)サイズのベッドが2つ、さらに布団5枚ぐらい敷けそうな和室。トイレは2つ、お風呂はガラス張りのバカでかいのが部屋に1つ、滔々として湯を湛えている。
いやだから君普段どんなところに泊まっとるんや。頑張れば4家族一部屋で泊まれてまうでぇ。

なんやこのホテルは!?
和室。えぐい。
洋室。何人泊まらす気やねん…。
そしてシースルー風呂。

16時ごろ部屋に入って夕食は18時に外に食べに行くことになっていたので、我々一家はとりあえず部屋の広さとベッドのフカフカ具合を堪能したのち、その馬鹿でかい風呂に先に入っておくことにした。子供がいつ寝ても問題ないので風呂が先の方が楽なのである。
風呂は広い上に割と深かった。子供達も大はしゃぎで大満足のお風呂であった。

風呂に入りまだ夕食の出発まで時間があったのでI氏家族の泊まっている部屋に皆で集合する。すでに他3家族は集まっており、ジェンガの壁版みたいな初めて見るおもちゃで遊んでいた。
僕は再び急速にビールが飲みたくなったので、I氏と共にホテル内売店でビールを調達し、部屋に戻るとえらく盛り上がっていた。そのジェンガの壁版のどん詰まりの状況を春ちゃんがぶっこぬきで打破したというので、天才現るとかなんとか、そんなことで盛り上がっていたようだ。

結局買ってきたビールは全部は飲めず、時間になったのでタクシーで夕食のお店(海鮮の居酒屋さん)に向かう。お店は1階が魚屋さんになっていて、2階がお座敷の、実に年季の入った雰囲気の良い居酒屋さんだった。接客も全員おばあさんで、その対応も実に自然で、昼に入ったあのクソ激寒前口上かましてくるオッサン店員とはまるで正反対の様子であった。テーブルも木の板ではなくちゃんと脚のついたテーブルで安心した次第である。
子供達も座敷だというので、よく馴染んでよく遊び、最終的には全員座敷でごろ寝してしまった。

この夕食時のことを思い出そうとしてもうまく思い出せない。やっぱり子連れでの飯は気がそっちに取られてしまい記憶に残りにくいのだと思う。

ただ、I氏がテキパキと接客のおばあさんと我々との繋ぎのようなことをやってくれて、実に助かったことだけは覚えている。彼は大阪で居酒屋を経営(店長も兼任)している。接客にまつわる作業はお手のものだ。かつて僕と自転車で琵琶湖を一周したこともある。そして、我々一家の無人島の仕事を古くからサポートしてくれているのは、高校の友人では彼だけだ。

生まれ故郷も近く、I氏とは不思議な縁を感じているが、先日(この湯河原旅行の後)、会社の大阪支所の開所式が大阪は帝国ホテルであり、僕には久々の大阪で、開所式の後僕はまさにこの湯河原の話がしたくてT氏夫妻と飲む約束をしており、それもI氏の店で飲む手筈を整えていて大変楽しみにしていたのだが、あれよあれよと会社の連中により開所式終了後の二次会をそのI氏の店でやる最悪の流れに持って行かれてしまった。
僕の父と兄もその開所式に出席しており、父も兄もI氏にはお世話になっているので渋々I氏に電話してみると、席はあるとのことだったので、実に嫌だったのだが会社の代表と、同僚数名と、父と兄とを連れてI氏のお店に向かった。I氏のお店で肩身狭く飲んでいるとT氏夫妻がやってきて(約束していたのだから当たり前だ)、僕はどっちつかずの状態で本当はT氏夫妻とたっぷり話したかったのだが、会社の代表に加え父と兄もいたので、どこにどう気を遣えばいいのやら、あっちに行ったりこっちに来たりめちゃくちゃに飲みまくって自失し、最終的に机に頭から突っ込んで対面にいた会社代表の股に酒から醤油から刺身から全てをぶっかけてその場に突っ伏したらしい。
その後も会は続き、あろうことか会社の連中は僕の大切な友人の店で勝手にカラオケまで始めたと後から聞いた。そんな連中出禁や出禁!出禁NO.1や!
しかしI氏は優しいので何も咎めずいてくれたらしい。本当に申し訳ない。

I氏の店にて突っ伏した後、皆をタクシーで送るところに記憶はつながる。記憶では何人かを見送った後、突如同僚の全員が消え、そして先ほどまで店で一緒だったT氏夫妻と一緒にいきなり天満の街を歩く場面に映像が切り替わる。何を言っているのかわからないと思うが、僕も何が起こったのかわからなかった。
後日同僚とT氏夫妻に話を伺ったところによると、まず会社の同僚が突然消えたのではなく、僕がいきなりいなくなり、ちょっとした騒ぎになったらしい。そしてI氏の店近くの薄暗い電灯にたたずむ僕を店から出てきたT氏夫妻が発見(T氏夫妻はその様子を「野生の先生(T氏の奥さんは僕をこう呼ぶ)が"落ち"ていた、と表現」)。僕は終電を無くしていたのでT氏夫妻の家に泊めてもらうことになったという、ただただ僕が全方面に迷惑をかけまくっただけの話であった…。T氏夫妻にも大変申し訳ない。


話を戻そう。湯河原のおばあちゃんが接客してくれる海鮮居酒屋にて、夕飯を頂いた後、ホテルに戻り、我々の部屋でさらに飲むことになった。色んな話をしたかったのだが、できたかどうか。大阪に戻りたいというような話をし、もし本当に戻ったならI氏の店で雇ってくれるかと聞いたことは覚えている。I氏は快く「もちろんや。店の2階空いてるからそこに住んでくれてもええで」というようなことを言ってくれたように思う。
あとはトランプの大富豪で遊んだ。

翌朝起きるとひどい二日酔いで、しかも外はバケツひっくり返したような土砂降りの大雨が降っている。またか、と思った。我々が旅行に行くと必ずそこは雨になる。
yoakenoandon.hatenablog.com
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皆は大浴場に行っていたようだが、僕にはその気力もなく、朝ごはんの時間が来るとしんどさを我慢してビュッフェ会場に向かった。
ビュッフェ会場では僕はあまりしゃべらず、子供の世話に終始していた。マッサマンカレーが美味しく、二日酔いの体にはHEAVYなはずなのに2度おかわりした。

他の家族もマッサマンカレーを食べていて、ちょうど話題もそのマッサマンカレーの話になった。僕は黙ってじっとその話を聞き続けた。

確かT氏が「マッサマンて何なん?」と言い出したことから話は始まった。T氏はiPhoneでマッサマンカレーについて調べ、「あぁ、イスラム教徒の、てことなんや」と言ったと思う。僕も初めて知ることだったので、へぇそうなのか、と思った。話はここで終わるはずだった。

ところがその話に噛みついたものがある。頑固一徹のY氏だ。ここから先は二日酔いの頭でいらない情報をいい加減に処理しながらの記憶になるので、現実とは多少違っているかもしれない。

Y氏は「マッサン?マッサンてあったよな?マッサンカレー?」と突然声高に叫び始めた。
T氏が「いやいやマッサンはNHKの朝ドラや。俺が言うてんのはマッサマンカレー」と返答した。
話はここでも終わって良かった。ところが、頑固なY氏は「マッサン」及び「マッサンカレー」という言葉に取り憑かれ、「マッサンはNHKの朝ドラ」というT氏の発言を頭から無視して何かをiPhoneで調べ始めた。
「マッサン…マッサンてあったよな…」と何が彼をそうさせるのか、調べながら「マッサン」のエクトプラズムを吐き続けるので、うちの嫁さんも「マッサンてあれやんな?NHKの朝ドラの、あのウィスキーの…」と話に加わった。誰かが「そやんな、サントリーか何かの」と情報を付け加えた。話はここで終わっても良かった。

しかしY氏は止まらない。「マッサンはNHK朝ドラでサントリーのウイスキーの話」という今流れたばかりの情報かき消すように、まるでそんな会話は今しがた存在しなかったもののようにして、一心不乱にiPhoneをいじくり回している。
この時点で我々は、Y氏は「マッサン」と「マッサマンカレー」を混同しており、いずれ「マッサン」及び「マッサマンカレー」の正確な情報に当たる限り彼の勘違いは解消されるものと、悠長に構えていた。

ところがY氏は「そっか、このカレー(マッサマンのことを指している)て○○な××のことやったんや」と、どこをどう調べたらその情報が出てくるのか、てんでデタラメな情報をiPhoneを見つめながら皆の前で披露した。あまりにデタラメ過ぎて何と言ったか全く覚えていないが、少なくともその中に「イスラム」という言葉は一切入っていなかった。
T氏はすかさず「君と僕で使ってるデバイスが違うんか」と正確無比なツッコミを入れた。

僕も黙って聞いていながら頭が混乱した。同じマッサマンカレーについてT氏の言うこととY氏の言うことがあまりにかけ離れていてどちらが本当なのかわからない。きっとその場にいた全員の頭の上に?マークが浮かびまくっていた。
その時Y氏の隣にいたY氏の奥さんが聞いた。「その情報どこに書いてあるの?」
Y氏は「YAHOO知恵袋」と答え、Y氏奥さんは「なんで知恵袋で調べるねん。wikiとかで調べえや」と間髪入れずにツッコミを入れた。

そのやり取りを聞いて皆一様に納得した。Y氏はきっと「マッサン」と「マッサマンカレー」を混同した結果「マッサンカレー」という怪物のような概念を生み出し、その怪物に取り憑かれ、その怪物を信じ切って「マッサンカレー」について調べ続けた結果、wikiの情報は出てこずに(だって「マッサマン」だもの)、yahoo知恵袋にぶち当たったのだ。

戦争は終わった。Y氏は敗戦処理に追われ、尚もマッサマンカレーについて調べ続けている。我々は黙々とご飯を食べている。その後どこかでY氏が「ほんまや、マッサマンカレーてムスリムのカレーのことや」と言ったかどうか。言った気もするが、このくだりがあまりに長すぎてもうどうでもよくなっていた。あと二日酔いでしんどかった。しかし、このどうでもよい会話が旅行中一番記憶に残り、後から考えると一番面白い瞬間であった。

朝食を食べた後、ホテルを出て皆でトリックアート美術館に向かい、熱海駅のビル内居酒屋でT氏夫妻、Y氏夫妻と昼食を取ってお別れとなった(I氏家族はその少し前に先に離脱)。我々は新幹線のプラットフォームまで見送りに出て、熱海駅は新幹線がカーブしながらトンネルから出て来るので春ちゃんは新幹線が通過するたび大喜びではしゃいでいた。いや、春ちゃんのみでなく、Y氏夫妻も、T氏夫妻も一様に喜んでいた。

皆を見送って湘南に帰る車の中で、子供達は眠り、僕と嫁さんは少し話をした。旅行を終えて僕と嫁さんは同じ思いを抱えていた。それは「強烈に大阪に帰りたい」という思いである。大阪時代に幾度となく遊んだ友人との旅行が楽しすぎて、大阪の生活が懐かしくなってしまった。簡単に手の届く距離に身寄り、友人のいない今の生活を寂しく感じてしまったというのもある。

合わせて僕は仕事のことを考えていた。仕事の愚痴をこのブログでもポロポロとこぼしているが、ハッキリ言ってもう仕事が嫌になっている。今の会社の代表から言わばスカウトを受けて昨年3月に家族皆で関東に移ってまで今の会社に入ったが、なぜ自分が呼ばれたのか、その意味が今となってはもう分からない。何か(特に野外活動の部分)を期待されてのことかなと思っていたが、そうではなく、ただ単に事務員の駒が足りなかったからその間に合わせに呼ばれた、と今は理解している。会社の仕事は己を殺して、処理しても処理しても終わることのない雑務をただひたすらこなすだけの仕事だ。そいつは能面の様なツラをして、24時間体制で人を拘束してくる。

僕は高校の非常勤講師もやっていて(元はそっちが本業)、今年の3月に受け持った生徒から授業の感想をもらった時に、会社で真っ暗な顔してぽちぽちパソコン打ってる場合じゃねえな、と思った。どっからどう考えてもそれは僕の仕事ではない。

こんな感想もらっといて渋谷でEXCEL叩いてる場合じゃねえって。

そしてこの湯河原の旅行で、友人達の顔を見ていて、翻って今の自分の顔を想像して、ケジメがついた。このままではダメだ。このように甘えたことでは。今の自分は全く中途半端で不真面目でしかない。


僕は必ず漫画家になろう。学校の先生も続けよう。そして会社は来年の3月に辞めよう。

そうしなければダメだ。のんべんだらりと生きてこうなれたら、ではどうしたってそうはなれない。そこに至るには強い意志と覚悟が必要だ。意識をハッキリさせないと何をすべきかも分からない。会社にいる限り、自分がどう生きたいのかは永久に棚上げされる。そうして毎日はまるで無意味に、高速に消費されていく。このままじゃ、モノ書いて生きたいってのは悪い冗談で終わるぜ。

今まで自分のやりたいことや、こうやって生きたいということを隠すように生きてきた。でも、もういいべ?そんなの隠して何になる。40過ぎて恥ずかしいもクソもない。それしか無いって思ってるなら、大真面目にそれに取り組みたいって思ってるなら、強く、しつこくそれを打ち出さないとダメだ。及び腰ではどうしようもないって今まで生きてきて十分に分かっただろう。

大阪に帰るかどうかはわからない。それでも来年3月に会社をやめると考えるだけで朦朧としていた意識がはっきりする。俄然、ファイトが湧いてくる。
もう心を殺して、嫌なことやって生きていきたくないんだ。生きるなら、思い切り快活に、ぶっちぎって生きていきたい。

湯河原旅行から帰る途中、そして帰ってからも嫁さんとそんな話をした。