ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

非常勤講師の価値

次年度勤める学校が決まった。これまでは2校を股にかけてやってきたが、その2校で非常勤の時間枠が少ししか取れない旨を3月の最初の方に伝えられていたので、違う学校から来た話を受けた。

時間数は週16時間、受け持つ科目は政治経済と世界史ということになった。
政治経済を受け持つのは初めてだが、高3の全クラスの政治経済の授業を僕が受け持つ。

この話を受ける際に学校から「やったことありますか?」とか「できますか?」とかいう話は一切無い。
非常勤をやるというのはそういうことである。簡単に言うと何でも屋だと僕は思っている。
学校側も僕に素晴らしい授業など期待してはいない。100点でなくていいから40点の授業をしてくれればそれでいい、学校からはそういう印象を受ける。どんなでもいいから生徒が50分座っていればそれでいいのさ。

授業に対し熱意を持っている先生ももちろんいる。しかし役人みたいになってしまう先生の数は、熱意ある先生の数をはるかに凌駕する。
別にその先生が悪いわけではない。学校という閉じた世界の中にずっといれば、そうなることはある程度必然であるようにも思う。

そういう世界で非常勤として生き延びるには問題を起こさない、目立たない、を厳守すればいい。あとは時々付き合いをすればそれでいい。
それが非常勤に求められている全てだ。授業は教科書通りにやりさえすれば何も問題はない。



だが、と僕は思う。それでは全く面白くないのだ。毎日がどんどん退屈なものになって、僕のやることなすことも役人のようになっていく。
逆にそうなりたいなら僕は非常勤を意図的に続けることなどしないで、常勤をやって、教員採用試験に合格すべく必死に努力しているだろう。

枠に縛られない、自由な非常勤にしかできないことがあると、僕は確かに思っている。
それこそが非常勤の価値なのだと。そしてその価値を高めたいとも思っている。
だから僕はおとなしい非常勤の仮面をかぶって、授業の中では先ほど言ったことの真逆をやる。虚栄心のためにやるわけではない。その方が楽しいからそうするんだ。楽しい授業を考えた結果として、教科書を使わなかったり、目立つ授業になってしまうだけだ。

その授業に何を求めるかはその先生の自由裁量だ。僕は楽しさをこそ求めるべきだと思っている。

次年度の授業のメインは政治経済ということで色々と楽しい話ができそうである。勤める学校が大学受験とほとんど関わりのない学校であることも恵まれていると思う。より自由にできるからだ。
政治経済の授業は、確定申告からやってみようかと思っている。


絶対にそんなことにはならないが、いつか非常勤講師が授業の楽しさに応じてランク分けされ、ランクによって給料が変われば面白いのに、とかいつも思っている。せっかく生徒に授業評価させてるんだからそれを有効活用すればいいじゃないか。

あるいは今ある先生という制度を全廃して、生徒のお父さんお母さんが毎日交代で先生をやる、というのはどうだろう?
言うなれば裁判員裁判の先生版だ。裁判員できるんなら先生もできると思うが。

だって本来子どもを育てるのは親の仕事だろう?
その一番大事な仕事を人に任せるのはあまり得策とは言えない。ルソー先生もエミールの中でそう言ってるぜ。

まあ、おかげで僕みたいなのが食えてるわけだが。