ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

絵を描くということについて

だんだんと絵がうまくなってきた気がするのだが気のせいだろうか。
このブログを始める前に買ったスケッチブックはもうすぐ一杯になる。
単純に絵を描くのは楽しい。これからも続けられそうである。

1日になんでもいいから1枚、描くようにしている。
ここには載せていないが鏡を見ての自画像だったり、電車の中でのおじさんもたくさんスケッチブックの中に描かれている。描いているとばれないようにするには電車で立って描くのが有効だと最近気づいた。
特に描くものが見つからない時は鏡の前で自分で色々ポーズをとりながら自分を描いている。一番単純で、誰に気を使うこともなく、お金もかからないので気に入っている。時々どこの国のナルシストだよ、と言われんばかりのとんでもないポーズをとったりしているが、未だ嫁さんにその姿を見られたことはない。見られたら終わりだ。

毎日描く中で分かってきたことがある。
絵をずっと描いている人からすれば当たり前の、基本的なことかもしれないけど、絵において最も大事なことは、正確な線をとるということだ。
これが簡単なことのように見えて、一番難しい。
線の位置、角度、長さ、狂うとおかしな絵になる。線が決まっている時は気持ちがいい。でも、どうしてそれが正しいと分かるんだろう。不思議なことだ。線の正しさについて目が鍛えられでもするんだろうか。

そうか、毎日何かを描く中で得られるものは、もしかすると目と手の正確さなのかもしれない。最近では自分の絵の違和感を感じる部位について、何が狂っているのかをめちゃめちゃ観察するようになった。そうして正しい線を見つけられた時、とても嬉しい気持ちになる。

正しい線を見つける、ということについて、絵を描くことと物語を書くことは極めて似通った性質を持っている。
僕は20代の頃から童話のようなものをずっと書いている。最近では、梅と竹の相克を描いたファンキーな物語が完成した。
何もないところに物語を描いていく作業は、思ったよりきつい作業だ。絵とは違って、あんまり気乗りしないなと思いながらいつも書いている。
空白に一文を書く。だけどその一文が正しいのかどうかわからない。迷いながらそれでも進まなければならないとき、とてもきつく感じる。書くのが嫌になる。
感覚をつかんでいる時にはその迷いがない。だから楽しい。一気に原稿用紙30枚以上を書いてしまう時もある。だけどそんなことは滅多にない。
大抵は、こうじゃないかと思う一文を書き、青息吐息でもう一文書く。残る違和感。まるで泥沼に足を取られたまま強引に進んでいるみたいだ。そのまま進む場合もあるが、あるところでピタッと止まってしまう。違和感は圧倒的に正しい場合が多い。その一文は「間違った線」なのだ。そのまま進むことは許されない。
違和感が取れるまで何回も書き直す。違和感のない一文は「正しい線」だ。見つかるまで試行錯誤を繰り返さなければならない。それが見つかった時、とても嬉しい。これがぴったり正しい一文だとはっきりわかるからだ。
話が抽象的になってしまった。

絵と文章は本質のところで似ている。表現の仕方が少し違うだけで、我々は間違いのない一本の線を必ず見つけ出さなければならない。

いつかそのような線を、一発で描けるようになるだろうか。

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フォルクスワーゲンビートルを描いた。僕の憧れの車だ。線をごまかさないために影の描写は最小限にとどめた。ビートルのかわいさが出ているだろうか。