期末テストが終わってから夏休みに入るまで中途半端に一回だけ授業があったので、世界史と関係あるような無いようなところで、少しだけニーチェについて話をした。
理想とか夢とか未来とか道徳とか神とか、そういうモノがぶっ壊れた後の虚無の闇に呑まれた世界で、今を肯定的に生きることを主張したニーチェ。彼の言うことは少しだけ僕にもわかるような気がした。
話の流れで「もし明日死ぬとして、それで満足だったと今思えるか」みたいなことをたまたま口走った時に、自分で言っときながらその言葉にハッとした。それで授業中に考え込んでしまった。
もし明日死ぬとして僕は、よくやったと思えるだろうか。
そもそも僕は何がしたかったんだろうか。先生がやりたかったんだろうか、絵が描きたかったんだろうか、ブログが書きたかったんだろうか。どれもそうだけど、どれも違う。もし明日死ぬとして、僕は間違いなくそのどれをも選択しないだろう。僕には書き残したものが大量にある。それを出来る限り書き尽くそうとするだろう。
もとの、一個の人間になったとき、僕は本当には物語が作りたい。煩瑣な日常に惑わされて時々わからなくなるけど、僕のやりたいこと、いや、やらなくちゃいけないと思っていることはそれだけだ。
人間は多くのものを選択できない。どれかを選ぶなら、どれかを犠牲にしなくちゃいけないだろう。その選択の仕方を間違えていたんじゃないかと、授業中に思った。一番大事なことを犠牲にして他のことにその力を分配していたのでは?それも随分長い間。生徒に考えてもらおうと思って放った一言が思いがけず自分を考えさせる羽目になった。
逆に僕は、物語さえ書き続けられれば、それで割と満足なのだと思う。ニーチェの永劫回帰(寸分違わず繰り返される世界)がもしホントだったとして、安心して受け入れられる。今を肯定できる。未練を残さずに死ねる者は少ないのかもしれないが、それでもその未練はやっぱり少ない方がいい。よくやったと思いながら死にたい。
焦っても何もいいことは無いが、それでも時間は無限ではない。早くやらなくちゃいけない。他のどれをも犠牲にして、物語を書くべきだ。
そんなことを授業をしながら思った。未来や夢や理想や、そういったもののために今を犠牲に「し過ぎる」ということは大人にも、高校生にも、往々にしてあると思う。
未来を軽く、今を遊ぶように生きられれば。