ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

熟達するということ

何もできない状態から何かができる状態になる。果たしてそれは是か非か、というようなことを最近よく考える。

できるようになれば必ず、できなかった頃の純朴さや素朴さ、可愛げや素直さを失ってしまう。できないことの良さを失ってしまう。

できるようになる、熟達するということはなんとなれば段々と幅の狭まっていく階段を登っていくようなものだと思う。えらいと言われ、すごいと言われ、本人もその気になって、気が付けば階段の頂点で一人ぼっちだ。一人ぼっちで誰も聞いていない空に向かって独り言を吐いている。

それは良くないと僕は思う。少なくとも僕はそんなのは嫌だ。えらそうになっちゃだめだ。お調子にのっちゃだめだ。一言で謙虚でいろということだが、熟達者が心から謙虚でいることは難しい。口先ではいくらでも謙虚でいられるが、心から謙虚でいようと思うなら自分などは何でもなくて、バカでアホで、どうしようもなくて、ちんちくりんのポンポコピーだと真剣に思っていなくてはいけないし、そう思うには本当は何もしない方が最高だと分かっていなくてはならない。

以上のようなことばかり最近考えてよくわからなくなる。その論法で行くと木や鳥や花や猫や赤ちゃんは良くて、人間のやることはまるでダメだということにもなるが…。

それがブッダが苦行をやめた理由で親鸞が山を降りた理由なんだろうか?悪人正機ってそういうことなんだろうか?

ここにつらつらとこのようにして物事を書く。それすらもお調子に乗ってはいないだろうか。
あんまり考えすぎると何も言えない、何もできないことになりかねない。実際、その方がいいんだろうか?何もないのも面白くないような気がするが…。


謙虚になりたい。