ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

『面白い授業ってどんなだ?』一年後の感想。

2018年度が終わる。僕は高校の非常勤講師をしていて、去年の4月に面白い授業について考えたことを日記にした。
yoakenoandon.hatenablog.com

この1年の僕の授業はどうだったのか。結果を述べずにほったらかすのはよくないと思ったので書くことにした。


プリントに関して。
僕が今年度生徒に配布したプリントは穴埋めに全て答えが書き込んであり、さらに僕の落書きが随所にされているというものであった。
脳死でエサが降ってくるのを待たせるのが嫌だという理由から穴埋めには答えを入れ、内容について少しでも興味をもって欲しいとの理由からプリントに絵も含め様々な書き込みをした。

2018年度作ったプリントの一部。もっといっぱいある。よくこんなバカなことを一年も続けたと思う。

書き込みは、少しは効果があったと思う。しかしほとんどの生徒は僕の絵を見るだけで、書き込んだ内容を一生懸命に読んでくれた生徒はクラスに2、3人ほどだった。

全て答えがわかっており説明がなされている、という状態のプリントを渡された時、よっぽどその分野に興味があるもの以外はきっと関心を失ってしまうのだ。
要するに「読むだけで面白い」ということを目指してプリントを作り始めたわけだが、それなら僕の授業を受ける理由がなくなってしまう。僕は自分で自分のクビをしめていたのだ。

もし、世界史定期通信講座のようなものがあって、その教材に僕の作ったようなプリントが送られてきたら、なかなか面白いだろうと思う。だけどそれはあくまで興味関心をもって自ら一人で学ぼうとする者には、という話であって、対面、対話式の授業で使うべき教材ではなかった。

その、はっきり言ってしまえばほとんど無駄であったプリント作りにとんでもない量の時間を費やしてしまったわけだが、全てが無駄だったとはまるきり思わない。
そのプリント作りの手法は、例えばこのブログで歴史の面白い話をしようとしたときには大いに使えるだろうと思う。この3月まではバレると面倒だと思ってプリントをここで公開することは控えていたが、もうあのような特殊なプリントを学校で生徒に配ることはないので、ここで諸々の話と一緒に紹介できたら面白かろうと思う。
何よりこの失敗を通じて自学自習用のプリントと学校の授業で使うプリントは違っているべきだとはっきり分かったのが大きい。

学校の授業で使うプリントは逆にほとんど何も書いてない方がいい。ほとんど真っ白で僕の絵だけ入ってるような、そんなプリントの方がいい。一目見て「なんじゃこりゃ」と思わせることができれば、それでそのプリントは十分に役目を果たしているのだ。1枚のプリント作りに5時間も6時間もかける必要はない。
来年度のプリントは白くする。ハンターハンター蟻編ジャンプ掲載時の富樫先生より白くする。


ノート作りに関して。
僕の授業は僕の話を聞く、僕と話をする以外に何もすることがないので、暇な人は自分のノートを作るように言っておいた。
そこには自分の興味関心のあることなら何でも書いていいし、思ったことや調べたことも何でも書いていいのだが、僕の意図を完璧に理解し、えげつないレベルのノートを作ってきた者は僕が2018年度受け持った200人中たった1人であった。
その生徒のことはこちらの日記に書いたが、そのままのテンション、熱量のまま一年間ノートを作り続けた。
yoakenoandon.hatenablog.com
彼女のノートは最終的にほとんど大学ノート2冊の分量になった。それも自分の調べたこと、思ったこと、それに自らの絵だけで作られている完全オリジナルのノートだ。強制されないことで、それだけのモノを作り上げるのがどれだけ大変かは、大学生を経験した人なら何となくわかっていただけるのではないだろうか。
そのノートはその生徒の作品と言っていい。そのまま出版社に持ち込んでも十分売り物になると思ったし、僕は正直お金を出して買い取りたいと思った。だけどそれは絶対にやってはいけないとも思った。その生徒が何年後かに自らのノートの価値に気付くまでは。
せめてこのブログにノートを1ページだけ載せてもかまわないか聞いとけばよかった、と今は思っている。もう卒業式も終わって会うこともないだろう。

200人中1人。ずば抜けている人間の確率とはそれぐらいなのかもしれない。

これはそのノートを作った生徒の授業に対する最後の感想。終盤になるにつれノートが加速度的にすさまじくなっていったので、僕の汚い字でコメントをノートに書きこむことができず、一枚のクロッキー帳にコメントを書いた。

授業本体について。
今年度の授業は生徒がノートやプリントに写すための板書を一切せず、50分を僕の話or生徒との会話で授業を成立させようとした。単純に一人でできる「作業」なら授業をする必要はないと思ったからだ。
その結果もろもろのことを考えさせられた。

まず50分の授業を僕の話で構成するのが大変難しかった。その点で落語というものは大変によくできているとしみじみ思った。
まず枕(つかみ)がある。話の本筋があって、オチがある。
授業もこの順序に沿えばうまくいく。が、問題が一つあって50分(授業時間)の落語というのは長すぎて途中寝てしまうのだ。
授業も同じで、話の本筋のところでダレてしまうと寝てしまう生徒が多発した。中には僕の授業の枕だけ聞いて本筋のところに入ろうとした途端寝てしまう生徒もいた。毎回の僕の枕が面白すぎたのか、それとも枕と本筋のつながりがうまくいってなかったのか。
僕は生徒が寝ていても起こさない。僕自身高校生の時に寝まくっていて、その行為に悪意はなく、しょうがないことだとわかっているからだ。それに何より寝てしまうのは授業がつまらないからだろう。
つまり僕が悪いのだ。

ダレることを防ぐために授業の本筋のところに、ありとあらゆる横道を用意した。例えば世界史の同職ギルドの説明の時には、オンゲーの話をしたり、将来何屋になりたいか聞いて回ったり、うちの兄貴が植木屋であることを話して植木屋の素晴らしさを説いたり、とにかくそれにまつわるありとあらゆる横道を用意した。そしてそれを自分のノートにびっしりメモして授業に臨んだ。
今思えばその横道の豊富さが僕の授業の豊かさを決定していたように思う。横道に逸れられなかった時は大変つらかった。必ずシケた空気になったし、寝る者も多かった。
そして横道にも良い横道、悪い横道があることを知った。端的に言うと共感、実感、体験を得られる横道は良い横道、そうではなく、どこかの教科書に書いてあるようなうわべの横道は悪い横道。さらに言うと個人的、特殊的な横道は良い横道、一般的な横道は悪い横道。
一般概念の話をしてもそれは頭では分かっても実感までは届かない。それならその概念に対する僕の感想や体験を述べた方が良いということだ。
良い横道だけで授業が構成されていて、実はそれが本筋とすべてつながっており、つまり終わってみれば本筋を勉強していたことになっていた、という授業ができれば最高だと思う。
それは僕が一年前に書いた「授業の中に雑談がある」のではなく「雑談の中に授業がある」という言葉と同じことだ。


生徒との会話という点では、人数のことにも思い悩んだ。僕の勤務する高校は大体1クラス40人構成だが、40人はあまりに多い。
僕の話、あるいは僕と生徒の会話を通じて授業が一体感を持って成立するための人数として、個人的には15人が限度なのではないかと思う。
それより多いとどうしても僕と生徒との関係が希薄になる気がする。生徒にも群集心理が働くのだろうか。15人以下の場合は僕と生徒は個対個で話をしていると感じるが、それより増えると個対「多数の中の一」という意識で僕と話をする。カベができてしまうような気がするのだ。
だから僕の授業では、40人クラスを教える時には逆に静かになってしまうことが多かった。
全ての学校で授業に関しては15人以下で行うようにならないものか。


最後に、なんだかんだ苦労した甲斐あって授業は面白いと言ってくれる生徒が多かった。最後の授業プリントで3年生には感想を自由に書いてもらったのだ。(先ほどのノートの生徒の感想もそのプリント)
素直に嬉しかったが、これじゃ全然ダメだと一年を通して思っていた。
僕にはまだまだ先生としての資質が足りない。

僕は基本的なスタンスとして、先生と生徒という関係性はあまりよくないものだと考えている。どちらかが上、どちらかが下で一方的に与えられるだけという関係ほどつまらないものはない。人は与えられるものに対して鈍感に、自ら求めるものに貪欲になる。鈍感は度を超すと食傷になる。
だから僕は本当は、全く教えない方がいいのだと思っている。自ら意図し、獲得したものには一生ものの価値があるが、人から強制され与えられたものにはその場限りの価値しかない。付け焼き刃の金メッキだ。それが何になる?

百科事典をその手の中に持ち歩けるような時代に、高校の先生もあるまいと思う。博識であることは今はあまり意味をなさない。
だから僕は生徒と比べて自分が上だとは思わない。無条件にえらいとも全然思わない。そもそも先生だとも思っていない節がある。
先生と生徒はそもそも人間と人間だろう。その上でこの人間は素晴らしいと思いもすれば、つまらないと思いもする。それは先生も生徒も同じだ。

教員採用試験に合格したから先生になれるのか?
制度上そうなっているが実際には違う。そしてその実際には違う、ということに気がつかない先生は大体辛酸をなめることになる。ことによると先生を辞めてしまう。

本当は試験に合格したからではなく「この人になんとしても教わりたい」と誰かから思われた時に初めてその人は先生になるんだろう。というかならざるを得ないんだろう。
自ら志願して先生になろうというのは考えてみればおかしな話だ。

現状、先生という存在が制度で規定されているので、そんな昔の徒弟制度みたいなことを言ったところで、それは無茶というものかもしれない。
ただ、いつの時代も、この人間は素晴らしいと生徒に思われることが、先生の第一条件であることは変わりがない。その人前に立つ人間としての素晴らしさ、面白さ、すなわち先生としての資質が僕にはまだまだ足りないと思う。
少なくとも、学校の先生をやっていなくても余裕で食っていけるぐらいの何かがないとと全然ダメだと僕は思っている。
そうでなければ何でもググることのできるこの時代に、授業を価値あるものにすることができない。

そこの部分を来年度は大きく変えたい。
もっと図太く、タフに生きたいのだ。