ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

内的必然性

僕の大学生活はロクなものではなかった。4年どころか6年もの時間を過ごし、ほとんど何一つ意味がなかったと言ってよい。

ただ一つ、ゼミで僕を指導してくださった先生(以下ずっと先生)の話だけはよく覚えている。僕が民俗学のゼミに入った時にはもう先生は定年間近で、僕らの世代は先生の最後のゼミ生になるはずだった。ところが僕は留年してしまい、先生の最後の生徒となることはできなかった。ロクでもない話だ。

先生の頭髪は全て白髪で、好々爺的な見た目をしていたが、恐ろしく怖かった。いわゆる体育教師的な、すなわち強制のための見せかけの怖さではなく、芯の通った怖さであったため、怒られてる側はナイフを喉元にずっとつき当てられてる感覚がした。動けば死ぬ、そういう感じだ。それでも僕はゼミをできる限りの口実をつけてサボろうとしたのだからやっぱりロクでもない。

先生は常々「内的必然性が必要だ」と言われた。その言葉を聞いた当初は全く意味が分からなかったが、あるいは表面をつかんでわかった気になっていたが、今にしてよく分かる。
必然性が無い、ということは作為的だということだ。作為的であるということは、それはウソであり、無駄なことだということだ。それは、もっと言えば悪だ。

先生が退職された2年後に僕が書いた論文はあってもなくてもいいような、すなわちまるで書くだけ無駄な論文だった。作為的に作られた論文だ。あのようなものを先生に見せていたら、と想像すると身の毛もよだつ。

しかし、先生が在職中から僕の中の必然は見出せなかった。とすると、2年留年したのも間違いではなかったのか?
いやいや、大学に行くこと自体必然性が無かったのだろう。

先生の言葉一つ一つこそは必然性に基づくものだった。だからあれほどに怖かったのだ。

今の世の中に、必然性を持って生きることが、いかに難しいことか。今なら少し、先生と話ができる気がする。