以下に2023年に仕事で行ったモンゴルキャンプ8日分のまとめを記す。
7月15日(土)
朝4時半に起きた。今日のモンゴル行きの飛行機は14時40分成田発である。12時には空港に着いておきたい。逆算して8時半に家を出ておけば横浜に9時半、10時のリムジンバスで12時前に成田に着く算段となる。
すなわち、あと4時間で出発の準備を整えなければならない。
まず、洗濯物を回した。ドラム式をこの春に買ったのであとはボタンを押すだけでいい。乾燥が終わるまで2時間半と出た。
それから布団を上げ荷造りにとりかかる。途中息子が僕の本棚から乱雑に出した頭文字Dが気にかかったのでちゃんとカバーをして本棚にしまった。どうもこういうことがキッチリしてないと腰を据えて何かに取りかかれない性分である。机の上が綺麗じゃないとやる気にならない。
荷造りは50ℓのリュックで行くか、120ℓのオバケみたいなリュックで行くかで迷ったが、モンゴルは昼はともかく7月でも朝晩は寒いと聞くので防寒具を入れる用に120ℓをチョイスした。
最後に使ったのはコロナ前、多分2019年で上海のタグが付いたままだった。
キャンプの荷造りをする際に留意していることが2つある。一つはビニール袋をたくさん持って行くこと、もう一つはタオルをたくさん持って行くこと。あとは別に何を忘れてもどうということはないが、この2つが無いと致命的なことになる。
荷造りを終えたのが7時ごろで、それから朝飯を作り始めた。冷蔵庫の中にあるものを消費するため卵キムチうどんにトマトときゅうりのサラダを作った。
洗い物を済ませインスタに上げる用の絵を描き始めた。モンゴルに行くことを一応報告しておきたかった。描き上げたのが8時15分、あとはスキャンしてインスタにアップするだけなのだがパソコンの調子がすこぶる悪くなかなか立ち上がらない。立ち上がっても反応が遅い。パスワードの入力画面が出るまでに10分ぐらいかかった。それから大急ぎでスキャンを実行し、あとはgmailで自分宛に画像を送れば良いだけなのだが、Google Chromeが立ち上がらない。立ち上がって、gmailに移動したところサインインが必要でそのサインインにも5分ぐらい時間がかかり、結局家を出たのは8時55分だった。新しいパソコンが心から欲しいと思った。
120ℓのお化けリュックを抱えたまま駅までダッシュした。結果、予定の1本遅れの電車に乗ることができ、横浜に9時40分着。無事10時の成田行きリムジンに乗ることができた。が、バスの中が何やら騒がしい。バスの座席が足りてないようで乗客が騒いでいる。子連れが何組かいたのだが、どうやら子どもはチケット無しで乗車しているようで、その分だけ座席が足りてないようだった。子どもを親の膝の上に乗せることで一応解決したが、バスの添乗員が外国人の親子に「膝の上に乗せる、プリーズ」とジェスチャーを加えながら言うのに、それって英語で何と言うんだろうなとしばらく考えてしまった。
could you put your child on your knees?で合ってる?
chatgpt先生に聞いたところ、place your child on your own lap.と言うらしい。
バスの中で琉球大学の先生に送る手紙の文面を考える。モンゴルが終わって無人島が終わったら次は沖縄だ。そこでうちの代表が、琉球について書いた本の著者に会いたいというのだが、その人が僕が手紙を書こうとしている相手だった。1時間半みっちり考えた。
成田に着いて、チェックインを済ませ、大急ぎで手紙を書いた。チェックインカウンター前にちょうど良い机があったのでそこで書いた。本当はもっとゆっくり丁寧な字で書きたかったが、時間が無く、最後は殴り書きのような形になった。それでも1時間近くかかった。だけど、メールやLINEと違って手紙を書くのは楽しいと思った。面識のない、ぶしつけなファンレターのような手紙なので拝啓も敬具もはしょったがそれで良かったのか。返事があれば良いが、さて。
モンゴル行きのゲートは成田の果ての果て(確か67番ゲート)で、チェックインカウンターから着くまでに30分ほどかかった。成田は保安検査場を通過してしまうとあまり食べるところが無いんだ。売店でビールとサンドイッチを買って昼食を済ませた。
搭乗後は特に何もなく、ひたすら岡潔の『紫の火花』を読み続けた。それで10代の頃から自分の邪魔をし続けたのは他の誰でもない自分自身だったのだなと気づいた。あと、心からやりたいことは、本当のところ何なんだろうと思った。これがやりたいと自分で思い込もうとしているものではなく、本当に自分がやりたいもの。それが見つかるまではきっとうんと考える必要があり、多量の時間がかかる。
本を読んで寝て、本を読んで寝てを繰り返して、まだあと1時間ぐらいあるだろうなと思ったところに、飛行機が着陸体勢に入りますとアナウンスがあった。予定より45分も早く到着するらしい。僕は通路側だったが、外を見てみると見渡す限りの草原と丘が広がっている。田んぼも畑も森も人家も何もない。まるで火星のようだった。ところどころ白くポツポツ見えるのは遊牧民のゲルだろうか。
ウランバートルチンギスハン空港に到着したのは現地時間19時頃だったと思うが、まだ太陽は中天にあり、つまりは真昼だった。22時を過ぎないと暗くならないらしい。
今回のキャンプのモンゴル側の責任者の方が空港まで迎えに来てくれていたので、車に乗って移動する。空港で「TAXI?」と声をかけまくっている兄ちゃんがいたが、ぼったくりだろう。モンゴルでもあるんだ。大体どこの国でも向こうから声をかけてくるやつは詐欺かぼったくりか、集団でのスリか、とにかくロクなやつではない。声をかけられた時は気を引き締めた方がいい。声をかけられ右を向いてる間に左のポケットに入っている何かが盗まれている。
ただ一つの例外の国が日本だ。
車の移動中、それまで見たことのない景色が広がっていた。とにかく行けども行けども草原と丘。たまにゲル、たまに牛、馬、羊。細かいことを考えるのがバカバカしくなるほど何もない。景色を写真に収めるため窓を開けると甘い匂いがした。モンゴルの草原は甘い匂いがするのだと知った。
「引きこもりやいじめや、今教育的に困難に直面している子どもたちは3ヶ月インドかモンゴルにぶち込めばいいんだ、それで大体治っちまう」と乱暴な説をかなり年配の先輩から聞かされたことがある。インドに関しては行ったことがないのでわからないが、モンゴルに関してはそれは本当だろうと思った。何も考える必要などないのだと体でわかってしまうからだ。生きているだけで十分なのだと心がわかってしまうからだ。
空港から1時間ほどでキャンプ場についた。時刻は20時を過ぎてようやく空が赤く染まり始めた。到着してまずミルクティーを出してもらったが、しょっぱいミルクティーで、どちらかと言うとミルクスープだと思った。夕食には牛が出た。今回のキャンプのために2頭牛をつぶしたらしい。羊も1頭つぶしたと聞いた。
それからビールとウオッカを飲みながらモンゴルのこと、内モンゴルのことを色々聞いた。
社会を教えている身としては勉強になることばかりだった。教科書に書いてあることと、現実とは違う。現実の方がどの意味でも遥かにすさまじい。
就寝したのは12時ごろだったかと思う。キャンプ場は丘の中腹にあって、丘の上まで登れば天の河も見えるということだったが、今日は朝4時半起きでそれからずっとバタバタしてたので、宿舎に入ってすぐ寝た。多分ベッドに横になってから2分以内には眠っていた。
7月16日(日)
朝はぐっすり眠った。8時前に起きて外に出ると牛が草を食んでいたので、降りていって様子を観察する。殴り書きのような絵を描いた。
8時半から朝ごはん。サラダと揚げパンが出た。モンゴルに来たら野菜は食べられないものと思っていたが、キュウリとトマトとレタスがしっかり出た。ドレッシングがキノコのソースで変わっていた。あと昨日いただいたミルクティーも出て、さらに牛肉も出た。ミルクティーに牛肉をぶち込んで食べるらしい。それはやっぱりミルクティーじゃなくてミルクスープじゃん。
朝飯後に明日より始まるキャンプの打ち合わせ。プログラムもほとんど大枠でしか決まってない。というか時間のないモンゴルでプログラムでガチガチにしてしまうと、それはもう全てが台無しになるので大枠しか決めないようにした。ただ、あまりに大枠すぎたので、ちょっとだけどんなことをどんな風にするか決めた。
大体やることとしては山(丘)登り、乗馬、馬頭琴、遊牧民との交流、火おこし、キャンプファイヤー。
十分だべ。
昼からは山登りのコースの下見を予定していたが雨のため中止。少しマシになったところで近くの丘に遊牧民の子と一緒に登った。
彼女は雨が好きだと言っていた。
夕食後、雨上がりの空にこの世のものとはとは思えない夕日を見た。
7月17日(月)
キャンプ参加者のモンゴルに来る日。
朝には雨は上がっていて、地面も乾いていたので昨日できなかった山登りの下見を行う。
割と低く見えていたのだが、実際に登ってみると1時間半ほどかかった。直登ルートを選択したがもう少し楽なルートがありそうである。
山は、木が1本か2本しか生えておらず、ひたすら草原が広がっており、こういう山はあまり日本では見かけないように思う。阿蘇がイメージとしては近いか。しかしこちらで生えてる木ははカラマツだろうか、やはり針葉樹である。
途中、茶色と白と黒の山羊の群れを見た。野生の山羊というのは基本あり得なくて、草原で見る家畜は必ずどこかの誰かが飼っている。
山の向こう側にもやはり針葉樹の森と草原が広がるのみで、山のこちら側よりもっと何も無かった。
遊牧民の中にはお金をもらってウランバートルの都市部に定住する人もいるそうだが、遊牧生活に固執する人もいる。その気持ちがこの山登りで、山の頂上に立って風に吹かれた時に、そして眼下に広がる心をどこまでも解放してくれる景色を見た時に、よく分かった。
遊牧の民として生まれ、一生を草原で、家畜と共に暮らす。そして時が来たなら死ぬ。
何千年と続けられてきたそのライフスタイルには、決して都会では到達できない、理解すらできない幸せがあるのだろう。
その幸せとは、ただ生物として生まれ、自然と共に生き、ただ生物として死にたいという人間本来の願いのようなもののように思われた。
お昼を済ませてチンギスハン空港に参加者を迎えに行く。特に混乱なく参加者を迎え入れられた。モンゴルの車道は右側通行なのだが迎えに行く際の車が右ハンドルの三菱デリカで、対向が来ているにも関わらず何度も反対車線に出て追い抜きを敢行しようとするので大変怖く、精神的に疲れてしまった。混乱といえばそれぐらいか。
バスはキャンプ場に午後9時半ごろ到着して、いよいよ参加者込みでのキャンプが始まった。
7月18日(火)
朝8時15分よりラジオ体操。8時30分から朝ごはん。
それから乗馬体験。その裏でうちの親方(僕の父)の催すモンゴルの草花を使ってのリース作り。
一応今回のモンゴルキャンプの野外活動責任者は父である。その父がモンゴルの草原、特に草花の可憐に咲いているのに大興奮して急きょリースを作ることになった。
僕もびっくりしたが、モンゴルの草原はただ草が生えているだけでなく、色とりどりのお花が咲いているのだ。それも雨の影響かこの2日で成長している気がする。日頃植物ばかり触っている父が興奮しないはずがない。
少しは手伝わないとまずいだろうなと、乗馬に行きたい気持ちを抑えつつ父のリース作りを手伝った。時間が経つにつれ、リース作りがしたいという参加者が増えてきたので機を見計らってリース作りの場をフェードアウト。馬に乗りに行った。
馬は立て髪をきれいに刈られた鹿毛の馬だった。モンゴルの馬はサラブレッドと違って少し小さい。と言ってもずんぐりむっくりというほどでもなく、身長184cmの僕が乗ると少し小さいかな、というぐらいだった。
引き馬で草原をぐるっと周ってもらうのだが、鎧に足をかけた瞬間、引き馬をしてくれるモンゴルの人に「一人で乗るか?」と言われた(キャンプ地のモンゴルの人は少し日本語ができる)。いやそりゃ一人で乗ってみたいけど全く乗馬の経験がない人間が一人で乗っていいものかわからず「馬乗ったことないけどいいの?」と聞いたところ「それはダメだ」と言われた。
なんじゃそりゃ。経験者だと思われたのだとしたら、なぜそう思ったのか聞いてみたかった。
馬に乗って手綱を持った瞬間に馬が近くの草を食べようとして手綱が引っ張られた。ものすごい力だった。パワーを「馬力」で表す意味がよくわかった。
馬もそうだし牛やあるいは身近なところで犬もそうだけど、人間を遥かに凌駕する力を持つ動物たちがなぜ人間に従ってくれるのだろう。エサをくれるからと言うが、遊牧民の家畜たちは勝手にどこか草のあるところに行って草を喰み、夕方になったら帰ってくる。人間からエサすらもらってない。人間のもとを飛び出しても生きていけるのにどうして人間についてくるのか、すごく不思議だ。
馬に乗って、しかし馬のサイズもあるのだろう、それほど高いとは思わなかった。50cmほど目線が高くなったかなという感じだ。
馬が歩くとドシンドシンと、その体重とパワーが鞍を通して伝わってくる。経験したことのない感覚でとにかく馬よりもっと大きな何かに乗せられて運ばれている気がした。感覚としてはでっかいロボに乗せられてる感じ。楽しいと思った。きっと一人で乗れるようになったらもっと感動するのだろう。
モンゴルでは乗馬も普段の生活の一部だ。馬を引く人も堅苦しいことを何も言わない。ただ静かに僕の馬を引いてくれている。馬に乗るモンゴル人もただ生活のために、必要だからそうしているだけで、馬に乗ることを特別視していない。意識せずに、まるで歩くかのように馬に乗っている。それは馬の乗り方からもわかることで、裸馬に乗っているモンゴルの人を見た瞬間に、この人たちには馬に乗ることは歯を磨くより当たり前のことなのだと気づいた。
日本の乗馬とモンゴルの乗馬では考え方が違いすぎる。
乗馬中、刈られた馬の立て髪を撫でてみるとまるでタワシのようだった。そのすぐ脇の馬の首筋の肌はスベスベツルツルで、触っていてとても気持ちよかった。
30分ほど馬に乗らせてもらって、リースの方に戻ると、もうリースは出来上がる寸前だった。
リースをモンゴル側のキャンプの責任者に贈呈し、参加者を募って14時30分から山登りを開始した。
本当はもう少し遅く、17時ぐらいから登りたかったが、雲行きが怪しくなってきたので時間を早めた。
モンゴルも日本と同じで午前は天気が安定していることが多く、午後から崩れてくる。確か中学地理でモンゴルはステップ気候で雨は少ない、と教えてもらった気がするが、実際来てみると存外多い。
山登りの参加者は20名ほど集まった。
昨日とは違うルートで登ろうと直登ルートを避け、尾根筋を登ってみたが、どちらかと言うとそちらの方が急坂で、かえってきつかった。途中脱落する人が出るかと思ったが、70代の人までヒーヒー言いながら結局全員登れた。
山頂まで来ると昨日と違って風がものすごく、体ごと吹き飛ばされそうになった。遮るものが何も無いので天気が悪くなると風速が凄まじいことになるのだ。参加者の皆さんも寒い寒いと言い出して長袖を羽織り始めた。中にはアルミのシートを自らに巻きつけている人もいた。
記念撮影をし、すぐに下山。皆山を降り切ったところで雲がゴロゴロ音を鳴らし始め、雨が降ってきた。早めに登り始めてよかった。
20時より夕食。これももとは19時からだったのだが、今日が始まってから予定変更の嵐で何一つ昨日の打ち合わせ通りに運ばなかった。
モンゴルでは時間は太陽の位置を見て決める。だから「何時何分にどうする」というような日本人的概念はない。まあ、日本人が細かいことまで気にしすぎなんだな。
全てはおおらかに進んでいく。ここは日本ではない。モンゴルだ。
僕はこっちの感覚の方が好きだなあ。
次からモンゴルキャンプの注意書きにこう書いておこう。
「スケジュールは予告なく、直前に変更されることがあります。」
7月19日(水)
ほぼ昨日のリプレイ。2回目の乗馬体験で今度は一人で乗らせてもらった。引き馬でもロクに乗ってないのにいいのだろうか。しかし一人で乗りたいと言ったら簡単に「いいよ」と言ってくれた。
モンゴルでは人口と同じぐらいの頭数の馬がいて、生まれた時から馬が近くにいるから、乗馬は教えてもらうものではないそうな。幼い頃から馬に乗って、遊びながら覚えるのだろう。
一人で乗って、しばらくは馬も歩いてくれたのだけど、途中からどれだけ合図(こちらではチュー!と言いながら足で腹を軽く叩く)を出しても微動だにしなくなった。そしてその可愛い目でこちらをチラチラと見てくる。早く降りて、ということだろうか。
10分ぐらい試行錯誤してみて、他に待っている人もいたしどうしようもないので諦めて降りた。最初からうまくいく人なんていないことはわかっているけどもう少し一人で乗りたかったなあ。
それから我々は遊牧民との交流に向かった。
遊牧民は2つのゲルを家族5人で使っていた。一つにはベッドが置かれ、もう一つにはタンスや祭壇他、生活をするのに必要なさまざまなものが置かれてあった。
ゲルは中に入ると案外広く、外から見るのと印象が違う。遊牧民との交流の交渉はモンゴル側のキャンプの責任者が行うのだが、飛び入りで行っていきなり行うらしい。僕が行った遊牧民は一発OKだったが、他の班では断られていくつか遊牧民を回ったとのことだった。
ゲルの中では小学3年生ぐらいの女の子が牛のミルクをクツクツと煮て、ミルクの湯葉を作っていた。そいつを厚さ2cmぐらいの茶色の角餅らしきものに載せて食べさせてもらった。ミルクの湯葉は大変美味しかったのだが、その角餅らしきものが硬すぎて噛みちぎれず、ずいぶん苦労した。周りを見ると皆噛みちぎれないようだった。
後には遊牧民の方から頂いた馬乳酒も頂いたが、これは酒というよりひたすら酸っぱい飲み物という感じがした。ヨーグルト、というのも違う。マッコリとも違うが、強いて言うならマッコリの味を薄めたものを超すっぱくした感じ。聞くとアルコール度数は1%ほどで子どももよく飲んでいるらしい。
モンゴルではビールと共にウォッカが愛飲されているようで、しかもこちらのウォッカはアルコール度数39%ほどで非常に飲みやすい。ビンの注ぎ口のところに工夫がなされてあって、トロトロと一気には出ないようになっている。その出方も手伝ってかついガンガン飲んでしまうのだが、このウォッカに馬乳酒を少したらすとさらに飲みやすいお酒が爆誕することに気づいた。マッコリの味はそのままに度数だけ上げた感じの危険極まりないお酒である。
遊牧民のところで馬の乳搾りを見せてもらうつもりだったが、馬は皆どこかに出払ってしまっていて(このあたりもモンゴルである)、見ることはできなかった。他の班は見れたようで様子を聞かせてもらうと、仔馬に少し乳を飲ませ、乳が出始めたところで仔馬を離し、あとは人間が乳を絞るそうである。
僕はあと2週間ここにいるので、また見る機会があるかもしれない。
遊牧民との交流を終え、キャンプ地に戻ると一番最初に遊牧民との交流に出かけるはずだった班がキャンプ地に残ったままでいた。
どうしたのかとたずねると、バスが来ないとのことで、モンゴル側の責任者によると手配していたバスの運転手が突然電話に出なくなったらしい。そして、急きょ違うバスを手配したとのこと。なるほど、実にモンゴルである。
「機に臨みて変に応ず」は僕の好きな言葉だけど、モンゴルでは臨機応変にならざるを得ない。
30分後に、と言われれば2時間後だなと考え、2時間待ってこなければ4時間後かなと考え、4時間待ってこなければ半日後かなと考え、それでも来なければ今日はもう来ないかもしれないなと考える。来なければ来ないで他のことができるわけだし、それはそれで良い。そう考える方が自然だと思うようになったのは感覚がバグり始めてるのか。
「何時何分どこどこで」の通用しない世界は自らを解放してくれる。
今日の夜はキャンプ参加者の自己紹介が行われた。モンゴルの学生さんたちも少し混じってくれて、歌を歌ってくれたり、踊りを披露してくれた。
モンゴルの人は愛想笑いをしない、とモンゴルの初日に思ったのだが、この日モンゴルの学生さんたちはよく笑ってくれた。
7月20日(木)
朝8時半よりラジオ体操、そして朝食。
今日はキャンプ最終日で、バーベキューから馬頭琴からキャンプファイアーから、盛りだくさんの内容である。
朝食が終わって、キャンプファイアーのための薪を希望者を募って取りに行く。日本での事前打ち合わせでは80人の参加者を4つのグループに割って、モンゴルの大草原でしっぽり焚き火のキャンプファイアーがいいんじゃないかと結論が出た。しかし、いざこっちに来てみると時間が無限にあり、もうしっぽり焚き火を囲んで話すようなことはあらかた話してしまったので、1発どでかいファイアーを囲み、歌って踊りたい、と予定はいとも簡単に変更された。
もう、急な予定変更や取り消しがあっても何も思わなくなった。行き当たりばったりの臨機応変はモンゴルの常だ。
朝には自由に乗馬もできたため、薪拾いの希望者は中年の男性陣を中心に10名強しか集まらなかった。少ない。が、自由参加なので仕方がない。
うちの親方(僕の父)が、陣頭指揮を取って薪拾いについて説明する。途中から山水人(やまうと)のヒッピーのお祭りの話になった(火おこし役で父は呼ばれていたみたい)。白人の女の子が山水人で指輪を無くし、皆でいくら探しても見つからなかったのに父が探してみると5分で見つかったとの話であった。
ところが、せっかく指輪を見つけてあげたのに、その白人の女の子は突然父に向かって怒り出したそうな。つまり、皆が1時間も2時間も探して見つからなかったものを父がいとも簡単に見つけ出してしまうというのは、それはあなたが盗ったからでしょう、と女の子は主張したわけで、それを聞いて父はその女の子をぶん殴りそうになった、という話だった。
あれ?なんでこんな話したんだっけ?
そうそう、つまり薪でも指輪でも焦点のズレたところをいくら探してもしょうがないよ、ということを父は話したかったのだと思う(多分)。
薪で言うと上から下に向かって探すより、下から上に向かって探す方が見つかりやすい。ちなみに白人の女の子の指輪は、人がよく通る道を重点的に探したらすぐに出てきたのだそう。
ということで、ある程度横に広がって近くの、恐らくカラマツであろうと思われる林を下から上に薪を探していくことにした。
しかし、モンゴル側のキャンプの責任者からは林に入れば薪は落ちていると聞いていたのだが、実際に入ってみるとほとんど落ちていなかった。林の低いところの薪は、キャンプ地で使う用にあらかた取り尽くされていたのだと思う。
そこで我々は薪を「拾う」のをやめた。いくら地面を探してもキャンプファイアーに必要な分の薪は絶対に見つからない。地面を見るのをやめて目線を上げ、カラマツの木の枯れてる枝をバンバン「折って」いくことにした。
枯れているがまだ木につながっている枝は面白いように見つかった。また、面白いぐらい簡単に折ることができた。参加者からは「薪拾いっていうから下見るのかと思ってましたが違うんですねえ」と声をいただいたが、僕もついさっきまで下を見るのだと思っていた。
この薪の取り方ならキャンプの第3班まで十分な量の薪を確保できそうである。参加者も今までずっと草原で過ごしてきて、今回初めて林の中に入ったのが新鮮で、しかも枯れた枝を探すのも、薪を折って取るのも初めてで、随分楽しそうにしていたのでよかった。
5メートルほどの高低差ごとに薪を1箇所に集め、どんどん上に登って行った結果、林の先に空が見えたので、せっかくなら稜線まで出ようと登り切ってみるとお花畑が広がっていた。
しかし、昨日山に登ってもっとすごい景色を見ていた我々には特に感動はなく、10数箇所にわたって集められた薪を皆で手分けしながら持って降りた。その頃には乗馬を終えた参加者たちが手伝いに来てくれて、薪を下ろすのは随分楽ちんだった。
今日のお昼は山を登ったところにある素敵な場所でバーベキューと聞いていたが、いざバーベキューの現場まで行ってみると何のことはない、先ほど薪拾いのついでに見た稜線上のお花畑がバーベキュー会場だった。
バーベキューの準備は現地のスタッフが全部やってくれたので、僕は少しの間隙を縫って眠った。僕は割とどこでもすぐに眠れる。かつて人からそれは才能だと言われた。
逆に眠らないと僕は動けなくなる。
バーベキューの後はキャンプ地にモンゴル国立馬頭琴交響楽団のソリストの方が来てくださって、馬頭琴の演奏会があった。少しだけ拝聴させてもらったが、キャンプファイアーの準備があったので早々に演奏の会場を退室した。馬頭琴の音色は、チェロともバイオリンとも違う、豊かな混合音という気がした。ヨーロッパの綺麗な音に、中央アジアの風が混じり合っている。
取ってきた薪をキャンプファイアーの形に組むのは現地のモンゴルのスタッフにやっていただけるようだったので、父と火おこしの準備をすることにした。
キャンプ場にある材木を使わせていただき、ナタとノコで削って火切り棒と火切り板をそれぞれ2つずつ作った。2セット作ったのは失敗した時のことを考えて。その場でもう一度削って作るのは面倒くさいからだ。棒と板には相性があり、何がどうあっても火がつかない組み合わせも存在する。
経験上、棒が硬く、受ける板が柔らかい方が良い。硬い棒を柔らかい板の穴に差し込み、摩擦して火種(火の赤ちゃん)を作り出す。比喩表現でもなんでもなく、実際にそのようにして火の赤ちゃんはできる。人間と同じじゃん、といつしか不思議に思うようになった。
火切り棒を作っている途中に馬頭琴の演奏が終わり、何を作っているのかと参加者がちらほら見学に来たので、一人をつかまえて、火切り棒の一つを削って作ってもらうことにした。こちら側で全部準備するのではなく、準備から含めてなんでも参加者にやってもらった方が参加者も楽しめるし、もし仮に失敗したとしてもこちら側の責任という話にならず、あたかも失敗がプログラムに含まれていたかのようになる。言い方を変えれば誰の責任でもなくなり、失敗を楽しめるようになる。
それに、なんでも見てるだけではわからなくて実際にやって、体で覚えないと身にはつかない。
棒と板を作ったあとは棒を押さえるための装置を作った。80人で綱を引いて火おこしをするので、押さえも相当頑丈なものでないと、棒の回転の勢いに負けて、吹き飛ばされてしまう。それに押さえつける力(圧力)が高ければ高いほど火は起きやすい。ギュンギュンに押さえつけられた棒がものすごい力で引っ張られ、回転すると割と簡単に火はつく。10人以上でかかれそうな、お神輿の土台のような押さえの装置を作った。
それが終わって夕寝をし、夜ご飯。
夜ご飯が終わってから、一昨日夜から始まった参加者の自己紹介の続き。これがめちゃくちゃ長くかかり、キャンプファイアーの場所に参加者全員が集まったのは22時近くになった。
おまけに最後の夜だと言うので夕食の際にモンゴル側の責任者よりウォッカがふんだんに振る舞われ、僕と父を始め、飲むのが好きな参加者は皆ベロベロになってしまっていた。
こんなに酔っ払った状態で火おこしをするのは初めてだ。
夕食会場から外に出ると満天の星空だった。天の川までうっすら見える。
キャンプファイアーは井桁ではなく、互いにもたせかけて三角形に作られてあった。僕はこの形のキャンプファイアーの方が好きだ。
ちゃんと火を入れるように隙間も作ってくれていたが、風下側に隙間が作られていたので我々の方で風上側に隙間を空け、火のつきやすいものを用意した。
参加者が全員集まったところで父がマイクを握り、火おこしの説明。ここ数年は僕が火おこしの指揮は取っていたので意外だった。どうも今回は久方ぶりに父がやる気になっているらしい。あとで「悪かった」と詫びを入れられたが、詫びなど入れる必要はない。80歳になっても皆と火を起こす姿を見ることができて嬉しかった。
火おこしは、火切り棒を中心に右と左に40ずつで分かれ、交互に引っ張り合う。真ん中、火切り棒の押さえには屈強な男子(中年)が集まり、さらに内モンゴルから参加の、ラオウの親衛隊みたいなガタイのスキンヘッドモンゴル人も加わった。
かけ声は「モンゴル」。
「モン」で左が引っ張り、「ゴル」で右が引っ張る。最初はゆっくりでいい。恋愛と同じで最初から鼻息が荒いとろくなことがない。
削れた木屑が火切り板の三角形の窪みに溜まるまでは、何をどうしようが火は起こらない。
大人数での火おこしは何かに似ているなと思っていたが、そうだ、お祭りの時の、だんじりを引き回したり、お神輿を担ぐ時のあの一体感と興奮が火おこしにもあるのだ。
「モン」の一引き目で煙が起こった。押さえつける力と回転の力がどちらも高密度である証明だ。「モン」「ゴル」のかけ声と共に火切り棒は高圧のまま回転し、煙がどんどん白くなると共に木屑が溜まっていく。
と、そこで父がラクダ(キャンプ地にいる)の毛を持ち(火おこしに使えるかと思って拾っていた)、三角形の木屑の出口を押さえ始めた。溜まった木屑が流出しないようにと思ってのことだと思うが、父がこれをやった時、絶対に火はつかない。少なくとも僕は父が木屑の出口を押さえて火起こしが成功したところを見たことがない。何より、火おこしは不思議な、少し神聖なもので、それは人間の営みにも似て、その営みの最中に横槍を入れるような父のその行為が僕はあまり好きではなかった。僕は父に「出口押さえるのやめてくれ」と興奮と熱狂の中叫んだ。
ここで思ってもみなかったことが起こった。ラクダの毛が火切り棒の回転に巻き込まれてスプリンクラーのようにぐるぐる周り、溜まった木屑をめちゃくちゃに撒き散らしてしまったのである。これでは火のつきようがない。父は慌ててストップをかけた。
火切り棒の回転は止まり、仕切り直し。
冷静になったところで父に出口を押さえるのをやめるようにお願いし、再び「モン」「ゴル」のかけ声と共にゆっくり火おこしが始まった。
溜まった木屑の温度が高まり、茶色い木屑が真っ黒になって煙が木屑そのものから出始めれば火種はできている。木屑を見ていて、そろそろいい量がたまったと思ったので、スピードアップを父に示唆した。最後の最後一番きついところで思いっきり回転速度をあげることで火は起きる。ずーっと同じ調子でダラダラやっていても火はつかない。恋愛も同じさ。
会場のボルテージが最高潮に高まり、高速の「モンゴル」かけ声に合わせて、回転速度の上がった火切り棒と板から全員咳き込んでしまうぐらいの量の煙が出始めた瞬間再びハプニング。押さえる力がすごすぎてぶっとい火切り棒が真ん中からバキッと折れてしまったのだ。
今まで縄が切れたことはあるが、棒が折れたのは初めてだった。火が起きたかどうか、微妙なところだった。スペアの棒を使ってもう一度かと思ったが、回転が止まったはずの木屑から煙が止まらない。やはり火種はできていたのだ。
父は準備していた、真っ白に乾燥した馬のフンを持ち出した。モンゴルに行く前より、モンゴルでは動物のフンを燃料にすることは聞いていた。せっかくモンゴルに来たのだからモンゴルにあるもので、現地式でやろうというわけだ。
モンゴルの草原に落ちている動物のフンは全く臭くない。乾燥しているものはもちろん、できたてホヤホヤのものからもほぼ匂いがしない。
そして、馬のフンは乾燥に伴い芝生のようにフワフワになっていく。牛のフンは反対にカチカチになっていく。さらに馬のフンは燃えやすいが、牛のフンは燃えにくい、とはこの1週間後、第2班の火おこしで分かったことであった。
父が火種をナタですくい、馬のフンの上に乗せてフーッと息を吹きかけると、炎こそ出ないがジリジリと黒く燃焼が広がり、それと共にお香のようないい匂いが漂い始めた。遊牧民はこの匂いが大好きで、いつまでもこの匂いを懐かしむと言う。
それを最初に聞いた時、本当は臭いのをユーモアを交えていい匂い、と表現してるのかと思ったがそうではない。モンゴルの大草原の馬のフンを燃やすと本当にクセになるような素晴らしく香ばしい匂いがするのだ。
馬のフンで火種を包み、父はそれを草で編んだカゴの中に入れた。カゴには木の枝とダンボールがすでに入っており、その中に馬のフンに包まれた火種を置いたあと、カゴごとぐるぐる回して酸素を送って炎を起こす。それがいつもの我々の火の起こし方だった。父によると元はアフリカのピグミー族のやり方らしい。
ここまでくればあとは火口(ほくち:燃えやすいもの、火を拡大させるもの)に、シュロの木の皮があれば、もう99%火おこしは成功である。が、火口に適当なものが見つからない場合、皆の注目と期待の最中、カゴを回しても回しても火がつかないという地獄の時間が訪れる。
馬のフンが果たして適当な火口となり得るのか。見ものだったが、父がカゴを回したそのひと回し目で火花が見えた。見ていて「あ、これはいける」と思った。そしてものの20秒ほど回すと、見事に炎が上がった。
僕は感動した。本当に馬のフンて燃えるんだ。
父はカゴをキャンプファイアーの隙間から中に入れ、キャンプファイアーは盛大に燃え始めた。カラマツは油分を含んでいるのか、非常によく燃えたし、火力が強い割に長持ちした。
火おこしさえ成功すればもういい。我々の仕事は終わった。あとは自由に歌うなり踊るなりしてくれればいい。それは我々の仕事ではなく、参加者側がプログラムしてやることだ。
そう思っていたのだが、ここで再度ハプニング。音楽をかけて歌って踊り始めたのはいいが、参加者の用意したBluetoothの大きめのスピーカーの充電が切れてしまい、音が出なくなってしまったのだ。
場はシーンとして、あらら、どないしましょと思うが早いか、父が「それではモンゴルの皆さんと一緒に友達の歌を歌いましょう」と声を上げ、「かたーい絆に、おもーいを寄ーせて〜」といきなり長渕剛の『乾杯』を大声で熱唱し始めた。
なんで『乾杯』やねん。
友達の歌に『乾杯』がふさわしいのかどうか、考える間もなく参加者も雰囲気に飲まれ、口々に乾杯を歌っていく。そう、スピーカーが使えない以上、歌うしかないのである。
こうしてモンゴルの学生さんたちが「これが日本の友達の歌…」と生暖かい目で見守る中、日本人80名による『乾杯』の大合唱がモンゴルの大草原に響き渡った。
乾杯をサビまで歌ったところで拍手が巻き起こり、父は見たことないぐらいの満足げな顔をしていた。多分、友達とか何とか関係なくて、彼はただ『乾杯』が歌いたかっただけなのだと思う。
『乾杯』のアンサーソングにモンゴルの皆さんが、モンゴルの歌ってくれた。静かな歌で、幼い頃大分の無人島で聞いた歌に似ていた。
それに答えて日本の皆さんが『見上げてごらん夜の星を』を歌う。
あとはあまりよく覚えていない。夜12時ぐらいまで歌の交換は続いたのだと思う。
今日の終わりに、スピーカーの充電が切れてかえって良かったかもしれないな、と僕は思った。
7月21日(金)
朝7時から朝食、8時半にキャンプ地を出発。
キャンプはここまでで終了。参加者はウランバートルに移動し、2泊3日のホームステイに入る。
キャンプ地からウランバートルへ戻る途中、太陽に照らされ美しく輝くチンギスハーン像が見えた。異常にでかいが、聞くところによると世界最大の騎馬像らしい。
ウランバートルホテルでホストファミリーとの対面式。80名もの日本人がモンゴルの各家庭に分かれてホームステイするわけで、ここは日本ではないので当然ホストの遅刻やドタキャン等色々あると思ったが、何のトラブルもなく、皆予定通りのホストと対面を果たすことができた。
奇跡だ。
皆を見送った後、我々は今回のモンゴル側の責任者(以後Mさんとする)の経営する大学で少しゆっくりさせてもらい、それから車でカラコルムへ。西へ400km、車で6時間の距離である。
ウランバートルを出発したのは16時ごろ。
途中サンサールというスーパーで諸々買い出しをする。カラコルムでホテルが取れなかった場合、今日はテントを張って野営するとのことだった。
西へ向かえば何か変わるかと思ったが、西へ行っても東へ行ってもモンゴルはひたすら草原が広がるのみであった。
カラコルムに到着したのは23時過ぎだった。途中ほぼ休憩をせずに100km/h超のスピードでランクル(モンゴルはTOYOTA車ばかり。プリウスが9割、5分がランクル、あとは別メーカー)を運転し続けたMさんは、それでもなおあと8時間は運転できそうなぐらい元気だった。体力のバケモノだと思ったが、本人もかつてモンゴル馬(すさまじいスタミナの象徴)とあだ名されたことがあると言っていた。翌日、僕はこの人の体力にもう一度驚かされることになる。
道中、運転をしながらのやり取りでホテルを取ることができたので、今日はホテル泊。心底ホッとした。今日はベッドで眠りたかった。夜ご飯は途中のスーパーで買ったカップラーメンを食べた。
酒もしこたま買っていたが飲むスタミナは残っておらず早々にドロン。
明日はカラコルム見学。
7月22日(土)
朝8時、IKH KOHRUMホテルで目を覚ますと少し体がだるかった。何か様子がおかしい。
朝食を食べに1階に降り、モンゴルのキャンプ責任者(Mさん)とうちの親方と勤めてる会社の代表と4人で席に着いた。
カラコルムには今回のモンゴルキャンプの視察に来ていた内モンゴルの教育関係者も同行していた。モンゴル教育界の先駆者であるMさんに話を聞くためわざわざキャンプ地からカラコルムまで500kmの距離をレンタカーでやって来たのだ。すごい根性だなと思ったが、Mさんは忙しすぎる方で、ゆっくり話のできる時間などほとんどないので、そうする他方法がないようだった。
その内モンゴルの方は幼稚園教育で一定の成功を収めたが、この先内モンゴルには未来が無いと感じ、わざわざモンゴルまで、それもカラコルムまで希望を求めてMさんに話を聞きに来たのだった。内モンゴルでは中国側の締め付けが段々と厳しくなり、現在はモンゴル語をレストランなどで話していると通報されるまでになっているらしい。未来も見えなくなろう。
そういえば何年か前、内モンゴルでモンゴル語の教科書が廃止され、全て中国語に書き換えられたものが使われるようになった時、大阪でモンゴルの方々がデモ行進を行なっていた。状況はその時よりはるかに悪化している。
朝ごはんを食べている間も体のだるさは感じていたが、次第に腰まで痛くなってきた。疲れが出ているだけだろうと思い、Mさんが内モンゴルの方と長い話し合いに入ったタイミングで離席し、チェックアウトまでしばし休ませてもらうことにする。
チェックアウトは11時。ホテルを出発した我々はカラコルムで行われるフェルト作りのお祭りに向かった。少し寝たものの体調は依然回復せず、むしろますます熱っぽさが増している。が、それを皆に伝えたところでこの地の果てのような場所ではどうすることもできず、どのみち車に7、8時間揺られてウランバートルに戻らなければならないのだからと、とりあえずフェルトのお祭りを見終わるまでは何も言うまいと心に決めた。この時はまだ元気だった。
我々を乗せたトヨタのランドクルーザーは途中からアスファルトの道を外れ、大草原のど真ん中を走り始めた。昨日雨が随分降った影響でところどころ川ができており、プリウスがあちこちで立ち往生していた。そんな中をランクルはまるで雑魚を蹴散らすようにして川の中に鼻づらを突っ込んでいく。この時僕は「ランドクルーザー」の意味と、この車の役割をはっきりと認識した。どんどん泥だらけになっていくランクルの姿に、僕が住んでいる湘南で大量に見られるピカピカのJEEPを「無用の長物」と思ってしまったのも無理はなかろう。
20車線以上ある草原の道を100km/h超で飛ばし、泥だらけの谷を渡る中でヤクの群れを見た。これでモンゴル5大家畜のすべてを見たことになる。
フェルトのお祭りはどこかの街の中で行われるものだと思ってたが、その会場は草原のど真ん中だった。このあたり実にモンゴルである。会場にはいくつかゲルが建ち、音楽が流れ、鷹が1匹優雅に宙を舞っていた。
ほうぼうの遊牧民がそのお祭りに集っているようで、遊牧民の子供や青年の姿も見られた。その遊牧民の顔を見た瞬間、僕は3週間のモンゴル生活で一番の衝撃を受けた。
なんと豊かでrichで幸せそうな顔であろう。僕はその顔を何一つ欠落していない、完璧に充足した顔だと感じた。日本でこのような顔にお目にかかれることはめったにない。その顔から僕は人間の豊かさとは何だろうかと、幸せとはどういうことだろうかと考えざるを得なくなった。人間が根源的に幸せを感じるために必要なことは何なのだろうかと。
お金をたくさん得られればいい、名声をたくさんかき集められれば、勉強して他人との競争に勝てば、それで幸せになれる。直接的に、間接的に日本の現代の教育ではこのように子供に伝えているように思う。
しかし、そんなものを何一つ持たないモンゴルの子供や青年がこのように幸せな顔をしているのは一体どうしたことか。その顔からは「自我」のようなものすら感じられない。自然と一体化しているような印象を受ける。
富や名声は自らの外側にあるものだ。それらは自我を空虚に膨張させる。幸せは果たして自我の膨張の先にあるのか。
インスタやTwitterでバズり、Youtubeのチャンネル登録者数が1億人を突破し、たくさんのお金を得て、皆からすごいすごいとほめそやされ、ここにいる本当の自らは何一つ変わってはいないのに、己が何かすごいものになったかのような錯覚(虚栄心)を得る。そのように膨張した自らの先(自らの外側)に幸せがあると思った人間はさらにお金を、名声を求める。しかし、膨張した自らの外側にあるもの、それは虚無の砂漠ではないのか。たくさんのお金、名声を手に入れて、それが一体何なのだ。誰が一体幸せなんだ。自らの膨張を目指す人間こそ、常に不足し続け、常に不満足で不幸せではないか。
違う。幸せとは自らの外側にあるのではない。自らの内側にあるものだ。モンゴルの遊牧民は矢印が逆を向いている。自らの内に内に向いている。外の誰かと比較することもない。比較する誰かがいないし、そんなことをしたところで無意味だとわかっている。膨張させ、誇示するための自我を持ち合わせていない。彼らの顔から自我が感じられないのはそのためだ。
そもそも自然とともにある、家族とともにあるだけでもう既に幸せなのだ。今ある生活が幸せの根源なのだ。これ以上何も必要ではない。求めるものはない。充足してしまっている。「足るを知って」いる。僕はそういう人間をモンゴルで大量に見た。だから彼らは遊牧生活をやめようとはしない。遊牧生活の外に彼らの幸せなどあろうはずもないのだから。
もう一つ、幸せを得るために、お金は必ずしも必要ではない。名声も必ずしも必要ではない。しかし、自然は必ず必要だとも思った。他のものをどれだけ手に入れようと、自然を手にしていなければ人間は根源的に幸せになれない。コンクリートで仕切られた囲いの中だけで、人は一生を過ごすことはできない。人間とて自然の一部なのだ。
物質生活とかかわりを持たず、何千年と続けられた馬と草原との生活を続ける遊牧民の姿、何よりその豊かで充足した顔から、人間の幸せのために最も必要なことを僕は教わった。
上記二つがモンゴルで一番強烈に感じたことだった。
フェルトのお祭りでは子供たちによる競馬が行われ、フェルト作りが始まり、モンゴル相撲が執り行われた。その馬上での子供たちの顔も素晴らしいものだった。
合間には小雨が降り、露しのぎにゲルの中で馬乳酒をいただいた(全てサービス)。馬乳酒はこの夏の時期が一番おいしく、この時期にしか飲めないものだとここで聞いた。馬乳酒の時期が過ぎたあと、その入れ物である牛の皮の袋は「洗わずに」たたんでしまわれる。袋の中に馬乳を発酵させるための菌(多分乳酸菌)がついているからだ。その馬乳酒は大変酸っぱく、清冽な味だった。
ゲルを覆っている白い布のようなものは実はフェルトで(それもこのお祭りまで知らなかった)、ゆえにフェルト作りは非常に重要な行事で、皆で寄ってたかって一枚の大きなフェルトを作るのだった。
モンゴル相撲も初めて見て、これは相撲と言うよりは柔道やレスリングに近いものだと思った。相撲であればはっけよいのこった、でお互いにぶつかり合うがモンゴル相撲にはそれがない。戦前の舞いの後試合がおもむろに始まるのだが、まずお互いに距離を取り、けん制し合い、相手の体をつかむために非常に長い時間がかかる。長ければ5分以上かかる。そこで見てる側は飽きる。大阪人的なせっかちな感覚では「はよせーや」となる。そして見るのをやめる。お互いの腰も引けていて、相撲のような正々堂々、といった感じがない。なんとなく地味である。モンゴルで日本の相撲が人気(モンゴルでテレビ放送も行われている)なのも、決着までのスピード感やそのドーンとした迫力が理由なのかな、と思った。
あと御年80歳になるうちの親方(僕の実父)がどうしてもモンゴル相撲がとりたい、飛び入りで参加したいというのを止めるのがめんどくさかった。いや、それを止めるのがめんどくさいというよりは、個人的には出場させてあげたかったが、僕の勤める会社の代表がケガしたら大変というのと、カラコルムの博物館に行く時間がなくなってしまうから、という理由で親方を止めたのがめんどくさかった。本人が出たいって言ってんだから出させてあげればいいじゃん。モンゴルのMさんも飛び入りでも参加できます、ってノリノリだったのに。勝つにせよ負けるにせよケガするにせよ、親父の最後かもしれない雄姿を見るチャンスだったのに。それにきっと出てれば勝ってたよ。
フェルトのお祭りには3、4時間滞在した。僕としてはもうウランバートルに戻ってほしかったが、先に言ったようにうちの会社の代表がカラコルムの博物館にどうしても行きたいというので、我々は日本政府の無償援助により設立されたカラコルム博物館に向かった。
博物館はこじんまりとしたもので、日本の援助でできたために日本語の字幕がついているのが印象的だった。博物館を見学後、学校での授業のため少し資料を買い、近くにあるエルデネゾー寺院を訪れた。
その段階でかなり熱が出ていると思われ(体温計が無いのでわからないが体感38℃以上はあると思った)、広い寺院内を歩いて回るのはきついと思われたので親方に少し休んでいると伝えたが、やたらと心配し始めたので面倒くさくなり、やっぱり大丈夫といきなり前言撤回して寺院内を見て回ることにした。
寺院はチベット仏教系の寺院で、日本で言うと密教の源泉にあたるような寺院であった。その中に飾られている絵や掛け軸は強烈で、見るだけで何が言いたいのか一発でわかり、密教の妖しさを伝えるには十分すぎるものだった。
理趣教のこともここで知った。その教えの大元を正しいと思ったかどうか。一理あるとは思ったが、憧れ続けたものを手に入れた先にある虚無をどうするのかと、先のフェルトのお祭りで思ったのと同じようなことを思った。虚無を手にしないと人間は幸せになれないと言うのなら、それもまた違うと思った。
とかく熱に浮かされていてこのあたりから記憶が曖昧になる。
エルデネゾー寺院を出たあと、昼ごはんを食べていなかった我々は遅めの昼食を取った。が、ここではもうおかゆしか食べられなかった。
ウランバートルまでの7時間、ランクルの後部座席で親父がそのクマみたいな身を縮め、僕が横になれるようにスペースを開けてくれた。僕が親父のバッグを枕に横になると、親父は僕の額に手のひらに当て、「38℃はあるなあ」と言った。その時僕の体感では39℃を超えていると思っていた。
覚えている限り車内ではエルデネゾー寺院の、特にそこに飾られている絵の話になり、おしっこやウンコをしている時、SEXをしている時、人は余計なことを考えない。その状態が良いのか悪いのか、とにかく無や悟りとそれは近いものと考えられたのだろうと、そんな話だった。
高熱に浮かされている時もそれに近いなあ、と菜の花畑に落とす雲の影の形を見ながらそう思った。
親父は時折そのグローブよりごつい手で横になる僕の頭を撫でてくれたが、僕も2歳の息子に対して同じようなことをしていて、親の気持ちとは子が何歳になっても変わらぬものなのかと思った。同時に僕が幼い頃、慢性鼻炎だった僕の鼻を親父が寝る前に必ずさすってほぐしてくれたことを思い出した。子供の頃は鼻をさすられるのが嫌だったが(親父の手はあまりにごつく、痛い)、しかしそれは最も幸せな瞬間の一つだったんだな、と熱にまどろみながらそう思った。