ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

気胸の影におびえる

しばらく更新しないとこの間言ったな。あれは嘘だ。
いや、実際体調が悪すぎてとても書けないと思っていたのだが、発症から3日経って少し落ち着いたし、胸に管を通したその傷の痛みもマシになってきた。そして手術かどうかわからないこのタイミングはひたすら待ってるだけで暇なので、先週書きかけで終わっていた日記を書き上げることにする。
ちょうど先週頭は「もしかしたら気胸が再発したかもしれない」という予感におびえていて、そのことを書くつもりだった。不安は現実になったわけだ。

今も僕の前では機械がピコピコ動いて、僕の胸から空気をバキュームし続けている。

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いつもこいつと一緒。


高校2年生の秋、突然左胸の激しい痛みと息苦しさに襲われて目が覚めた。

「くっ、なんだこれは!?まさか俺もカカロットと同じ心臓病だというのか…?」

とにかく立っても、座っても、横になっても、息をしていても痛い。ジャンプなんてしようものならその場でうずくまってしまうほどだ。そして横になると左の胸から「ポコポコ」あるいは「コツコツ」というような実に気味の悪い音がした。

学校を休み、1日安静にしてりゃ治るかと思っていたが痛みと息苦しさはますばかりで一向に治る気配がない。母に「病院に行った方がいい気がするが…」と相談したところ「あんたそんなもんただの風邪や!これ飲んどき!」とタンスの奧をまさぐり、珍妙な箱から取り出された直径3cmほどの黒くて丸い塊を渡された。

「これは何か?」僕が問うと母は「熊の肝や!」と答えた。
明治時代か?

万病の薬と言われる熊の肝でもさすがに心臓病には効かないと思われるが……しかしそんなこと大まじめの顔をした母には言えず、その妙にでかくて黒い塊を僕は黙って飲み込んだ。
一体、こんなものいつから持ってたんだ?

当然、熊の肝では僕の胸の痛みを取り去ることはできず、それから3日ほど経ってやっと病院に行くことを許可された。
叔父が当時近くで内科医をやっていたのでそこまで自転車で行く。それだけのことで息も絶え絶えだった。

ほとんどしゃべったことのない叔父だったので緊張しながら症状を相談すると「ほぅほぅ、こりゃまさか……」と言いながらレントゲンを撮ってもらうことになった。病名はすぐにわかった。

「あぁ、やっぱり。肺が破けとるわ。紹介状書いたるからこのまま入院やな。すぐお母ちゃんに連絡して」

え、え?肺?破け?入院?紹介状?

あまりの展開の速さについていけずビックリして涙が出た。ビックリして涙が出たのは初めての経験だった。


僕を襲った病気の名称は自然気胸。肺にある弱い部分(「ブラ」と呼ばれる)が破け、そこから胸腔内に空気が漏れていく。漏れた空気が胸の中で肺を圧迫し、さらに肺を縮めてしまう。こうして息苦しさと痛みが発生する。そのままほったらかしてあまりに胸腔内に空気がたまりすぎると、空気の圧で心臓など他の臓器の位置を動かしてしまいショック死してしまうこともある。


僕を診てくれた叔父の子(つまり僕のいとこ)も同じ病気にかかっていたらしく、僕の体型と症状からすぐ予測はついたらしい。
この病気にかかる人間には身体的にそれと分かる特徴がある。すなわち若くて、やせ型の、背の高い男性がかかりやすい。その罹患しやすい身体の特徴からこの病気は昔から「男前病」や「イケメン病」などと呼ばれてきたそうな。実際俳優の佐藤健や嵐の相葉君など数々のイケメンがこの病気にかかってきたようだが、イケメンでないものからしたら何もありがたくない、実にはた迷惑な話である。

診察後すぐに母に連絡を取り、近くの大きな病院にそのまま入院となった。入院のための服やら歯ブラシやらを持ってきた母も少し気が動転してるようだった。

治療としては、まずは胸腔内にたまっている空気をどうにかせねばならないので、わき腹を切って胸の中に管を挿す。そうしてたまっている空気を吸引して体外へ排出する。この対処の仕方を「ドレナージ」と呼ぶ。こうすれば肺が自然に膨らんできて呼吸も楽になる。そのまま肺に空いた穴が自然治癒するのを待つのである。

担当の先生の手際は非常によく、自分が切られたりどうしたりされていることがよくわからないまま僕は管付きの体になった。ただ、麻酔が切れたその日の夜から3日ほどは傷口がすごく痛かった。そしてそのドレナージの装置はベッドに備え付けのもの(装置自体にバッテリーがついていなかった)だったので、僕の行動範囲はベッド周りに限られ、便もベッドの隣に置かれた簡易トイレでしなければならなかった。それが一番つらかった。

この方法でスッと治って5日で退院、という人もいれば治療が長引く人もいる。当然のように僕は後者だった。
破けた肺がなかなか戻ってくれず、ドレナージの吸引を止めるとすぐに肺がしぼんでしまった。毎日祈るように過ごしていたことを覚えている。
結局3週から1ヶ月ほど入院しただろうか。なんとか空気漏れが収まって退院できることになった。

退院してみると学校の授業は全く分からないことをやっていた。特に数学は微分積分の範囲で、先生が何を言っているのか皆目見当がつかなかった。皆Sのような文字の上下に数字を書いて、黒魔術のようなことをしていた。
友人の様子も含めてどこか世界が変わってしまったように感じていたが、それは世界が変わったのではなく、自分が変わっただけだった。


話がこれだけで終われば良かったのだが、この自然気胸という病気、再発率が高いことで有名である。なんと50%の人は再発する。それはもはや治ったと言っていいのかと問いたくなる数値である。
そして当然のごとく僕も再発した。多分二回目は退院してから三ヶ月も経たないうちだっと思う。

二回目の入院はなんだか僕もサバサバとしていてよく覚えていない。もうどうにでもしてくれや、みたいな気分だった。
割と一生懸命やっていた部活もここで心折れてしまったように思う。

三回目の気胸になったのはそれから数年後、僕が大学生の頃だった。このときは、もうドレナージでの治療では再発を繰り返すだけだ、ということで、全身麻酔で僕の肺にある弱い部分を切除することになった。気胸の大元を取り除いてしまうわけである。
昔は胸を開いて手術していたそうだが、僕が手術を受ける時には小さなカメラ(内視鏡)でも手術ができるようになっていて、体への負担は小さくて済むとのことだった。

手術の朝に浣腸ですべてを出し切り、ドラマであるように寝転んだまま手術室に運ばれた。全身麻酔をかけます、と酸素マスクのようなものをカポッとはめられるとその瞬間意識がなくなった。
次に目が覚めるともう手術は終わっていて先生から「今すぐたまっているたんを吐いて!」とバケツのようなモノを差し出された。

手術は予定より長くかかったらしい。母は随分心配したようだった。

それから次の日の朝までが地獄だった。どこか知らない部屋に一人置き去りにされ、今が何時なのか、そこがどこなのかもわからなかった。体中痛んで眠れず、尿管には管が通されそこから尿が取られるのだが、痛いし気持ち悪いし、オシッコが出てる気がしないし、とにかく早く朝が来て欲しかった。
ナースコールで今が何時か何度もたずね、オシッコがちゃんとでているのか何度も聞いた。看護婦さんは呼ばれる度めんどくさそうな顔でそれに答えた。

誰でもいいから隣にいて「大丈夫だ」と言って欲しかった。あの夜のつらさだけは今でも忘れられない。
結局ほとんど眠れず、なんとなく朝がやってきたことを窓の外から感じた時はとてもホッとした。朝がこれほどありがたいものだとそれまで知らなかった。

つらい思いをしただけあってか、それから15年気胸が再発することはなかった。

時折夜寝てる時にあの「ポコポコ」という音が聞こえる気がしたが、次の日には何ともなっていなかった。気胸は完治したのだ。悪夢は終わった。

それからはもうほとんど気胸のことなど忘れて生活していた。授業のネタに時々遠い目をしながら僕が昔かかった「男前病」の話をするぐらいだった。「男前の奴は気をつけろ」などといかにもお調子に乗って、まるで僕とは関係ない奴の話をするかのようだった。実にいい気なものだった。


ところが、先週頭からまたあの断末魔の音が僕の左胸から断続的に聞こえ始めた。しかも今度は一日で終わらない。かつ、なんとなく息が苦しい気もする。
「いやいや、まさかな……気胸は治った。俺はもう気胸にはならないんだ!」

症状が軽くなる日もあった。だけどそれまでとなんとなく体の感じが違うような気がして、とにかく元通りになることを願った。
不安を散らすためにやたらめったら授業で病気の話をした。授業をすれば体も軽くなる気がした。何度もジャンプして肺が痛くないか確認したり、横になってポコポコいわないか試してみたりした。確認して大丈夫だと分かっても、やればやるほど不安になった。

そして迎えた先週金曜日。学校から帰宅途中、歩いているとめちゃくちゃ背中が痛くなってきた。気胸の症状として背中や肩にも痛みが来るのだが、今度のはそれまでとは一線を画していた。そして時間が経つにつれ胸も痛く、どんどん息苦しくなってくる。

ヤバい、まともに歩けない。休憩しながらなんとか駅までたどり着いた。試しにその場でジャンプしてみる。
痛いっ!えっ!?痛いやん!

電車の中では電車が揺れる度胸に痛みが走りせきこんだ。ダメかもしれんこれは。本気のヤツが来てしまったのだ…。

命からがら家に帰ってきた。横になると少し息苦しさは減ったが、もう仰向け及び左を下にして寝ることはできなかった。そうしようとすると一気に痛みと息苦しさが増幅するのだ。
それでもその時はまだマシだった。まだ自然治癒の見込みがあると思っていた。

その日の夜ご飯は嫁さんの作ってくれる白菜と豚肉の料理で、僕の大好物だったため、なんとしても食べたかった。しんどそうなのを心配されたが強がりを言って嫁さんと食事した。やっぱりとてつもなくおいしかった。ご飯もおかわりした。だけどご飯の途中から僕の口数はどんどん減っていった。息苦しくてしゃべるのがつらくなってきたのだ。

ご飯を食べ終わって茶碗を下げることもできず(それすらとてつもない重労働に思われた)、僕は布団にぶっ倒れた。あまりの様子のおかしさに嫁さんに「病院に行こう」と言われた。その時点で夜の8時だか9時だったので「こんな時間に病院やってないし明日になったら行くから」と僕はまた強がりを言った。なぜ強がりを言うのだ。本当に死ぬぞコラ。バカかお前は。

しかし、その時間に病院に行ってもなんの処置もしてもらえないことが僕には予想された。この病気は胸に管をぶっさして、たまった空気を抜かなければどうにもならない。専門ではない当直の先生にその処置ができるとは思わなかった。ただ寝かされるだけなら同じことだ。

嫁さんは食い下がった。電話して受け入れてくれるところを探すから、と言ったが僕はまた断った。
それでとりあえず母に病気のことを伝えることになった。母は電話では特に落胆した様子を見せなかったが「今からでも受け入れてくれる病院を探せ」と言った。嫁さんもその電話を聞いていて「ほらやっぱりお義母さんもそう言ってるやん!」と鬼に金棒、渡りに舟、そんな具合になった。今度は僕も強がりを言わなかった。

実際問題それまで経験したことがないぐらいの痛みと息苦しさになっていた。今までの3回の気胸よりひどい。もう右を下にして横になっても痛かった。
これはマジでゆっくりしてると死ぬかもしれんと思い始めたのだ。

嫁さんが救急センターのようなところに電話をかけ、僕の症状を説明し、呼吸器科で受け入れてくれるところを聞き出した。そこに片っ端から電話をかけていく。
今は器の仕事をしているが、もともと嫁さんは養護教諭だったのでとても手際がよかった。

4件ほど病院に電話をかけて回ったがどこにも断られた。僕が3回の気胸を経験した病院もその中に含まれていたが、僕がかつて自然気胸で入院していた旨を伝えたにも関わらず、そこの対応が一番悪かった。嫁さんが電話対応に憤慨する様子に、僕はなんてファックなところに入院してたんだろうかと思った。

「やっぱりダメなんだ、諦めよう」
そう言おうと思ったが必死に電話をかけてくれる嫁さんの姿に、僕は何も言わず嫁さんに全てを預けることにした。

最後にかけた病院も断られはしたが、とても親切な病院で「どこどこ病院なら今日の当直の先生が呼吸器専門なので診てもらえるかもしれない」と救急センターでも教えてくれなかった情報を教えてくれた。

すぐさま嫁さんがその病院に電話をかけると割とすんなりOKをもらえた。多分即入院になるだろうと僕は充電器とメガネだけは持って、嫁さんと二人タクシーに乗り込んだ。タクシーの中では場を和ますため何かしゃべろうとしたが息苦しくて何もしゃべれなかった。それに何をしゃべっても多分場は和まなかっただろう。タクシーの運転手さんも行き先と僕のただならぬ様子に「何かあったらすぐに言って下さい」と緊張した面もちだった。

沈黙のまま夜10時だか11時だかに病院に着いてみると、病院の建物は想像していたより小さく、古びていて、その看板は「院」の字が球切れでチカチカと点滅しており、なんとなく「AKIRA」の世界観を漂わせる迫力満点の病院だった。

この際わがままは言ってられん。とにかく何でもいいから楽にしてくれ!

お願いするような気持ちで中に入った。僕を診てくれる先生は若くて頭の良さそうな先生だった。レントゲンを撮るとやはり肺がしぼんでいた。
「このまま入院ですね」
と予想通りのことを言われたわけだが、予想通り過ぎて何だか飲み込みがたく、入院するしかないのに少し考えてしまった。それでもその先生が呼吸器内科の先生でその場でドレナージの処置をしてくれると聞いて腹は決まった。早く管を突っ込んで欲しい。

手術を一度しているということで、癒着がないか確認のためCTを撮る。その画像を見て僕は驚愕した。体の前面から撮ったレントゲンではわからなかったが僕の左肺は側面から見るとペチャンコになっていたのだ。
「この白いところが肺のある部分、黒いところは肺のない部分」と先生は淡々と説明されていたが、いや左肺真っ黒やないかーい!

そりゃあれだけ苦しいわけである。本当に土曜日の朝まで我慢してたらえらいことになってたかも…考えるとゾクッとした。

ドレナージの処置もテキパキときちんとやってもらって、すぐに息苦しいのが楽になってきた。
「この病院は内科しかないので、もしまた内視鏡手術をするなら転院になります」
これまた淡々と説明して先生は去っていった。
処置が終わり病室に運ばれた時間が確か深夜1時半だったと記憶している。

地獄に仏の夜だった。必死にこの病院を探し当ててくれた嫁さんには感謝しかない。

その夜は救急の病室で寝たのだが、言い方は悪いが死にかけのおじいちゃんおばあちゃんばかりで、おばあちゃんの絶叫がひっきりなしに聞こえた。「お母ちゃんお母ちゃん!」と何か求めるように叫ぶおばあちゃんの隣で僕は、元気な老人もいるのに人間はなぜこうなってしまうんだろう、というようなことを考えた。考えているうちに寝た。体が疲れていた。

そうして今に至る。
今はドレナージの最中でまだ僕の肺が元に戻るかどうか分からない。手術になるかもしれないし、その可能性の方が高いようだ。でも、あの手術後のしんどさを考えると本当はそれは避けたいような気もする。

あの時手術を受けたのは再発率がグッと減るからだったのだが。気胸で内視鏡手術を二回受けた人はいるんだろうか?ググってみても全然出てこない。

内視鏡手術を受け、それでも気胸が再発する確率5%。
5%……。

それだけの確率なら僕がもう少し…いやもっと、佐藤健クラスの超絶イケメンでも文句を言われないはずだが。全くもって割に合わない。はた迷惑な話だ。

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幕内優勝かよっていう戦績。画材が無いので白黒絵です。5度目はいらない。