大谷翔平選手を見ていて、僕の好きな漫画『ピンポン』の第5巻、ドラゴン対ペコの試合は、ドラゴンにとっては解放だったのだと初めてわかった。
ピンポンの対立構造の一つは、僕の上記の漫画で言えばドラゴンが3コマ目の左、ペコが右。
人の目を常に気にし、人の目から見た自分を気にし、周りの評価を得るために卓球を続けるドラゴン。僕の受け持っている高校生のようにちやほやされたいのではなく、ドラゴンの場合、勝利、名誉、評価、そういったものを追い求める心は強迫観念に近い。
その雑音からドラゴンを救い出し、二人だけの世界へドラゴンを連れて行ったのがペコだった。
漫画では描かれなかったが、ドラゴンとペコの試合は、その後のスマイルとペコの試合と同じように、幼少期のドラゴンが幼少期のペコと戦っていたのだ。
周りの目も、評価も、名誉もない、ただ眼前に相手がいて、お互いに全力で打球する、それだけの世界。
ペコの心の集中がドラゴンをそこへ連れて行った。
大谷選手のプレーからもペコと同じものを感じる。大谷選手が打席に立つ時、周りから人は消えて、ただ一人、大谷選手が神とも言うべき野球の真髄に対峙しているような、そんな感覚になる。そして彼の姿が、僕を雑音の無い彼の世界へ連れて行く。
彼の野球への心の集中が僕をそうさせるのだ。
純粋にそれを楽しむ、とは誰にでもできそうでいて、実は誰にもできない、神からその素質を与えられた者と幼い子どもにしかできないことなのかもしれない。
そしてその素質を与えられたものはたった一人神と対峙することになるのだ。