ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

楽しい授業とは?(高校)

10年教員をやってきて、授業についてこれまで随分よく考えてきた。教員をやっている方は皆そうだろうと思うけど、同じ時間を過ごすなら楽しい授業の方がいい。しかし、何をどうやっても楽しくならない授業が成立してしまうこともあれば、こちらが二日酔いその他で今すぐゲロでも吐きたい状況なのに、とんでもなく楽しくなってしまう授業もまたある。授業の楽しい、楽しくないについて、意味不明過ぎてずっと考えてきて、おぼろげながらわかったことがある。

「遊び」がその鍵を握っているのだと思う。

授業を「授業」として授業に臨んだ場合、その授業は大体つまらなくなる。先生が上、生徒が下、こちらが教える側であちらは教えを受ける側、その観念こそ授業を腐らせる最大悪だ。では授業をどう考えれば?

授業は「遊び」でこちらは何も知らない。教科書に書いてあることも何も知らない。教えなければならないほど重要なことも特にない。ただ、生徒と話をして遊んでいればいい。そのように考えれば良いのではないだろうか。そんな無茶苦茶なと思うかもしれないが、二日酔いで授業に臨む僕は大体そんなだ。そしてなぜかそんな時ほど授業は自由な空気に包まれ、大変楽しいものになる。つまり、悪く言えば授業をテキトーに扱う。よく言えば授業を軽く扱う。僕は馬鹿にされても授業は楽しい方がいい。ほら、ブッダも中庸がいいって言ってるじゃん。だから「知らんけどな」でいい。「そない書いてあるし、そうらしいで」でいい。教師として立派に立ち振る舞わなければという思いがかえって授業をしんどくさせる。「俺は何も知らない」と生徒に伝えられる先生の方が、知識振りかざしてえらそうにしている先生よりよっぽど立派だ。


そもそも、教えなければならない、なんてものはない。学んだところでどうせ全部忘れるし、少なくとも僕が得た歴史の知識で(民俗学の知識を除く)、学校の先生から授業で学びました、なんてのは一つもない。全て自分で獲得したものだ。だから、授業なんてのはそんなもので、教科書に書いてあることは言っても言わなくても、別にどっちでもいいのさ。大事だったのは、先生がしてくれた教科書から外れた色々な話と、授業の雰囲気と、その先生の人となりで、他ははっきり言ってどうでもいい。百科事典が人間の片手にある時代、博識は何の価値も持たない。学んだところで定期考査が終わるやいなや片っ端から忘れてしまう「教えるべき内容」なんて呪縛からは、答えでもなんでも先に渡してさっさと解放された方がいい。教科書見てくれりゃいいし、わからなければyoutubeでも見てくれりゃいい。それで十分だ。そんなのわざわざ授業でもったいぶってする話じゃねえよ。実にどうでもいいし馬鹿馬鹿しい。学問なんて元は暇つぶしからできたもので、今では偉そうな顔してるけど最初は色んな人間が酒飲みながらあーだこーだ言ってただけだろ。いくら学問に意味づけしたところで、生徒本人の「生きる」ことと結びついてないことはどうしたって血肉にはならんよ。無意味なものは無意味だ。教えるべき内容にいくら肉付けしたところで生徒の無関心はどうしようもない。生徒の心を引っ掻くことはできない。


授業を受ける生徒は何を求めてそこにいるのか。受けなければいけないことになっているからそこにいるのか。ほとんどの授業、ほとんどの生徒はその意識下にあるが、本当はそうではない。授業を受けていれば何か楽しいことが起こるからそこにいるのだ。授業を受けるのにワクワクしてほしいし、ゆっくりした気持ちで受けてほしいし、自由の空気を吸い込んで欲しい。楽しんで欲しい。そのために必要なものは教科書ではなく遊びだ。少し年上の人間と少し年下の人間が色んな話をして遊ぶのだ。授業はそれだけでいい。あとは何にもいらない。つまり元の、あーだこーだに戻ればいい。昔の人間もそれが楽しくて仕方ないからそうしてたんだろ。遊びから発展して成立した授業から、遊びがなくなってしまうってのはなんだかよくわかんねえな。人間てのは時代を経るにつれ、ありとあらゆるものを本質から外れてなんだかよくわかんないことにしてしまう性質を持っている。授業もその一つだ。そして授業の本質は遊びなのだ。

教員になりたての自分はそのことによく気づいていたのにな。10年やる中で学校に染まってしまった。もう一度壊そう。授業を徹底的にぶっ壊して、解体して、原初の状態に戻そうと思う。