ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

3年生にサヨナラ

なんだかよくわからないが何を書いたらいいのかよくわからない状態になって、このままだと多分ずっと書かないということになりそうなのでとりあえず何か書くことにする。きっと冬のせいだろう。考えていることはたくさんあるのだけど、冬はそれらも引きこもって外に出たがらないらしい。

そう、つまらないことでいいし、一行の日記でもいいから何か書いてないと、ブログに対して億劫になってしまう。あんまりハードルが上がりすぎてしまう。

1月の末で3年生にサヨナラした。今年度の3年生は実に元気が無かった。コロナで何もかも潰されたせいなのか、学年主任が厳しすぎる人間だったせいなのか、あるいはその両方なのかわからないが、とにかく元気が無かった。倦怠や諦めが染み付いているような学年であった。最後に少し言葉を送ったがそれも届いたのかどうか。

3年に対しどこかよそよそしさを感じていたのは、僕自身、授業に対し身が入っていなかったことも理由としてある。何を教えているのだろうかと今年度はよく考えた。世界史を教えている、しかし授業でもって生徒の魂をひっかくことができなければそれは何でもない。魂をひっかくか、逆に言うなら情のようなものを与えることができるなら、世界史でも数学でも全然別のものでも、科目は何だって構わないのだろう。いや、科目など全然教えなくてもいいとすら思える。僕がこれまで受けてきた「授業」と呼べるものはそういったものだった。人間は知識やテクニックや偏差値から薫陶を受けるのではない。人間から薫陶を受けるのだ。良い授業とはその先生のことがよく分かる授業を言うのだと僕は思う。

しかし、僕には一人で走った経験が無い。戦わず窮々としているだけの人間が何を言ったところで誰も話なぞ聞かない。戦わず、日々安穏とルーティーンをこなすのみの人間の背中を、誰も追わない。それで、とにかく一人で走ってみようと思った。走り出したところで3年生とはお別れとなった。だから、3年生に対し何も出来なかったと思ってしまうのだろう。だから、3年生に対し申し訳なさと寂しさを感じてしまうのだろう。全てが中途半端なまま一年が過ぎ去ってしまった。

先生などというものになろうともなれるとも思わない。だが、先生と呼ばれる人がいたとして、その人間は戦い、傷ついて、しかしまた立ち上がって戦おうとする人間のことを言うのだろう。僕はそういう者の影を追ったのだ。

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最後に感想を書いてもらった。良かったと思ってもらえた生徒もいたのかなあ…。