ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

2021年2月3日

前日の夜に、その日休む旨は教科主任に伝えていた。
その夜は眠れたような、眠れてないような、夢を見たことだけは確かで、それは子どもの産まれる夢だった。

その日の朝は何時頃起きたろうか。確か8時頃だったのではないかと思う。
嫁さんの実家にて泊まらせてもらった僕は、朝ごはんをたっぷりと頂いた。そのままそこで待機していてもよかったが、どうにも落ち着かない気分だったので、お義母さんにちょっと外に出てきますと言って、買ったばかりのNBOXに乗り込んだ。

行くあてがあったわけではないけど、だからといってじっとしていることもできなかった。
まずは連絡があった時に備えて病院まで実際に車で行くことにした。
走ったことのない道を走る。Jimmy eat worldをかけながら。
病院は割と行きやすい場所にあって、しかし病院の駐車場は満車表示だったので、いざという時のために近辺にある駐車場を調べて回った。

その後、天保山へ海を見に行く。
僕は天保山へ行きたかった。それは僕が嫁さんに告白し、そして付き合うことになった場所だ。
車を有料駐車場にとめ、海遊館の目の前にあるスターバックスに入った。平日午前の、しかも港の近くにあるスターバックスは随分と空いていて、僕の他にはもう一人お客さんがいただけだった。
僕は海の見える位置に席を取り、コーヒーを頼むと日記を書きはじめた。ちょうどこんなような日記で、どうにも落ち着かないと書かれてある。嫁さんが病院に入ってから50時間が経過しようとしていた。
僕には願うことしかできなかった。

そこには1時間もいなかったのではないか。会社の同僚っぽい男女のペアが入ってきたところで僕はスターバックスを出た。
スターバックスのすぐ脇にある、僕が嫁さんに告白したベンチを見に行ったが、そこは立ち入り禁止になっていた。観覧車が写るように少し角度を調整してそのベンチを撮った。

やっぱりこんなところにいてはいけないと思った僕は再び車に乗り込み、せめて近くにいようと病院に再び向かった。
病院の近くに停車したのが13時前だったと思う。どこか車が停められて時間の潰せるファミレスでもないかと探し始めたところで嫁さんから電話がかかってきた。

もう息も絶え絶えといった様子で嫁さんは僕に「来てください」とそれだけ言った。僕は上ずった声で「分かりました」と言い、上ずった声を出す自分を初めて認識した。お義母さんに連絡し、すぐに病院へ。

病院の駐車場はちょうど満車ではなかった。無事に車をとめ、体温検査と消毒を済ませて病院の中に入る。
どこにどう尋ねていいのやら、誰も彼も忙しそうにしていたが、バタバタしている受付のお姉さんに強引に声をかけ、出産の立ち会いで呼ばれた、分娩室はどこかと訊ねた。お姉さんは嫁さんの病室を確認し、ていねいに案内してくれた。それで僕も幾分落ち着いた。

産婦人科の階でエレベーターを降りた僕は、それでもやはりどこに向かえばいいのか分からず、しばらく辺りをうろうろした。
嫁さんの担当をして下さっている助産師さんが僕を見つけて声をかけた。

分娩室は今まで経験したことのないような空気感、緊張感だった。
嫁さんは血圧が上がらないよう電灯を消された薄暗い部屋で、陣痛促進剤やら血圧降下剤やらで管だらけにされ、ベッド脇のバーにしがみつき、もがき苦しんでいた。前日に血圧が上がりすぎて危険だったため陣痛促進剤の投与を打ち切られた嫁さんは、しかしその晩から前駆陣痛が始まりほぼ眠れないままに当日を迎えていた。
体力の消耗がひどいようだった。

何と声をかけていいのか分からなかった。嫁さんの手を握ったその僕の手がブルブルと震えていて、嫁さんは「震えてる」と少し笑った。
それで少し場が和んだが、やがてその手は自然に離されて嫁さんは「痛い!痛い!」と叫び始めた。そんな嫁さんは見たことがなかった。というかそこまで痛さに苦しむ人の姿を僕は見たことがなかった。
僕は高いところから落ちて背骨を破裂骨折した時に、とんでもない叫び声をあげた。それはもう叫び声を上げていないと気が狂ってしまうという痛さだったからそうしたのだ。そうせざるを得なかった。

そういう状況に嫁さんも置かれている。しかもその痛みは間違うことなく定期的に、リズムを刻むようにやってくるのだ。助産師さんは僕に奥さんの腰を押してあげて下さいといった。
助産師さんは分娩室を出て行き、僕と嫁さん二人きりになった。
僕は言われる通りに嫁さんの腰を指で強く押した。しばらくはそれで嫁さんも楽になった風であった。僕に「上手だ」とも言った。
だけど、だんだんとその要求されるパワーが大きくなっていった。しゃべる余裕もなくなっていった。
つまり、時間が経つにつれごまかしきれないくらい陣痛の痛みが増してきたのだ。

このままでは先に僕の指が壊れてしまうと思ったので、1時間ぐらい経ったところでテニスボールに変えていいかと嫁さんに尋ね、そしてcan doで購入したテニスボールで嫁さんの指示する場所を押さえ始めた。これでもかというぐらいに力を入れているにも関わらず、嫁さんは僕に同じ指示を出し続けた。「もっと強く!」。
こんな力で押していいのだろうかと思うぐらいの、嫁さんの体が壊れてしまうのではないかと思うぐらいの力で押した。押し続けた。
助産師さんが嫁さんが痛がっている時には「呼吸、呼吸!」と言っているのを見て、僕もテニスボールで押す時には嫁さんと一緒に大きく「フーッ、フーッ」と言った。


そうしているうちに出て行った助産師さんと主治医の先生が様子を見にきた。その間僕は分娩室の外に出された。
嫁さんの隣にいる間はまだよかった。何もできなくても痛みと苦しみを共有できる気がしたから。壁越しに嫁さんの叫び声を聞く方がよほどつらかった。

先生が分娩室から出てきて、「まだ母体の準備が整っていない。しばらくかかると思うが、今日中には産まれると思う。ただ血圧降下剤を打ちながら、母体の体力と相談しながら、ギリギリのところを保っているので、バランスが崩れたら帝王切開に切り替える」と僕に言った。
命のはざまにいるのだと思った。本当に命がけの作業をしているのだと思った。

僕ができることは嫁さんの隣にいて、押してほしいを言われるところを精一杯押すことだけだった。
だけど、僕も幾度か手術をしたことがあって、術後一人でほったらかされることのつらさだけは知っていたから、隣にいるだけでも少しはマシなのかもしれないと勝手に思った。

僕が付き添って、一時間に一回ぐらいの割合で助産師さんが様子を見に来て僕が分娩室を出る。
そんなことを数回繰り返しているうちに嫁さんがドンドン弱気になってきた。「まだですか、まだですか」と助産師さんに哀願するように訴えかける。
いつ終わるともしれない痛み、苦しみとはどれほど耐え難いことだろう。もう少しと言われて終わりの見えないのが一番つらい。それでも先生がGOを出さない限りどうすることもできない。
先生が「帝王切開」という単語を出した時には嫁さんは「もう帝王切開でいいです」とぶっきらぼうに言ったりもした。それでもその一言には多分に愛嬌が感じられて、助産師さんも先生も笑っていたが。

やがて17時が近づき、僕を分娩室に案内してくれた助産師さんが夜勤の人と交替する旨を嫁さんに伝えに来た。それでも今日中、あと数時間のうちにはきっと生まれるから、と嫁さんを元気づけた。が、その一言はまだ「数時間」も苦しみ続けなければならないのか、と逆に嫁さんの気分をどん底に落とした。嫁さんが出産のために入院して56時間が経過していた。

とりあえず交替する前に一度見ておきますね、と僕は再び分娩室を出されたが、やがてその助産師さんが出てきてもう一人のベテラン風の助産師さんを呼び出した。分娩室は慌ただしくなった。僕は廊下にいたが分娩室から「頭が見え始めてる」と聞こえた気がする。
そういえばその30分ほど前に嫁さんが「えっ!?何これ!?髪の毛、髪の毛の感覚ある!!」と陣痛の痛みにもがき苦しみながら僕に訴えかけていた。

呼び出されたベテランの助産師さんが分娩室から出てきて今度は慌てて主治医の先生を探し始めた。しかし先生はナースルームにはいなかった。さっきぶらっとどこかに出かけたのを僕も見ていた。そこでその助産師さんはその場をたまたま通りかかった女医さんをつかまえて分娩室に引きずり込んだ。

そこからはとにかく大騒ぎというかなんというか、今まで薄暗くて静かで嫁さんがただ苦しみ、僕が隣でなんとかしてやってくれと祈るだけの分娩室が、途端に活気づいたようになった。体力を考慮してそこまでいきんではいけなかったのが、ようやくGOサインが出たのだ。

やがてベテラン助産師さんが出てきて僕に「立ち会われますよね?」と聞いた。僕は「はい、そのつもりです」とやはり少し上ずって答えて分娩室に入った。

いよいよその瞬間なのだ。呼吸が苦しくなった。

嫁さんの頭の右横に陣取った僕は嫁さんの頭を抱えるように持った。その方が力が入るのだろうか、いきむ際におへそを見るようにするためだった。いつのまにかお散歩主治医先生もしっかりスタンバっていた。あなたいつ帰ってきたのだ。

総勢5人がかりぐらいだった気がする。「陣痛の痛みと一緒にいくよー!はい、いきんでー!!」で嫁さんが思いきりいきむ。「上手上手!」と言いつつ赤ちゃんは出てこない、いきみきったところで一呼吸(約1秒)おいて「はいもう一回!」。出てこないのでちょっと呼吸を整えて「はい、もう一度いきんでー!!」

僕は嫁さんが死んでしまうと思った。人間はこんなことに耐えられるのだろうか。
200m全力でダッシュさせて「はい、1秒休憩ー」でもう一本200m全力ダッシュ、「はい、1秒休憩―」でもう一本200m全力ダッシュ、「はい、1秒休憩ー」でもう一本、みたいなことが幾度となく繰り返されるのだ。

出産で死ぬとは、痛みで死ぬわけでも、苦しさで死ぬわけでもなくて、生命力を振り絞って死んでしまうのだと分かった。男が出産に耐えられないというのも、痛みに耐えられないというよりは、生命の源のところのパワーが、その太さが男性と女性とでは違うのだと実感した。僕だったら絶命していると嫁さんを見ていて幾度も思った。とにかくハラハラして一刻も早く赤ちゃんに出てきてほしかった。
嫁さんの頭を支える以外に自分はどうしようもなくて、死ぬ思いでがんばっている人に「がんばれ」と言うのも違うと思ったけど、がんばれと一生懸命ハッパをかける以外にできることがなかった。

しかし、いきんでもいきんでも赤ちゃんは出てこなかった。赤ちゃんのサイズが大きすぎたのだ。

お散歩先生は陣痛のいきみと一緒に赤ちゃんの頭を機械で吸引して出しますと言った。
その機械をつける時が今までで一番嫁さんが「痛い!痛い!」と叫んだ時で、見ていてたまらなくかわいそうになった。
本人いわく陣痛の痛みがわからなくなるぐらい痛かったそうだ。

その機械をつけて一度目のいきみでは出ず、「こんな痛い思いしてんのになんでやねん!?はよ出したってくれや!!」と僕は心の中で叫んだが、二度目のいきみでやっと「頭出たよ!もういきまなくて大丈夫」と声が聞こえた。しばらく助産師さんたちが赤ちゃんの体を完全に出すためにもぞもぞして、それから「でかいっ!でかいっ!!」と言った。

赤ちゃんの姿が見えて、しかししばらく泣き声が聞こえなかった。もしかして死んでいるのではないかと怖くなったが、助産師さんが赤ちゃんのあちこち体を拭いているうち男の子の元気な泣き声が聞こえてきた。

赤ちゃんとどちらが先だったが分からないが、嫁さんからも大きな泣き声が聞こえてきた。もしかすると赤ちゃんが生まれてすぐ、赤ちゃんより先だったかもしれない。それも「わーん、わーん」という赤ちゃんのような泣き声で、僕もその嫁さんの泣き声を聞いて、やっと終わってほっとしたのと、嫁さんが痛そうで苦しそうでどうしようもなくかわいそうだったのと、本当に死ななくてよかったのと、赤ちゃんが生まれて嬉しいのと、張りつめていた糸が全部いっぺんに切られてしまったみたいで、もうなんだか訳が分からなくなって、経験したことのないような気持ちになって泣いた。助産師さんも「もらい泣きしそう」と言いながら泣いていた。

2021年2月3日17時31分。入院してから合計56時間31分にわたる難産だった。

やがて助産師さんが嫁さんに赤ちゃんを見せる。嫁さんはわんわん泣きながら「メガネ、メガネ―」と言った。それで僕もハッとして、何だか周りが皆ハッとしてメガネを探し始めた。それが何だか少し滑稽で、僕の涙は止まってしまった。

メガネをかけて嫁さんが赤ちゃんを見る。産まれたばかりで母体が弱っているからだろうか、嫁さんはだっこはさせてもらえなかったが、赤ちゃんを見て「かわいいー」とやはり泣きじゃくりながら言った。

赤ちゃんの体重は3676gだった。そもそも嫁さんの体は小さく、母体に影響の少ないように陣痛促進剤を用いて赤ちゃんが大きくならないうちに産んでしまおうという計算だったのに、いざ出てきてみるとめちゃくちゃ大きな赤ちゃんだった。計算違いもいいところである。
それで嫁さんは「小さな体でこんな大きな子を産めるなんて勇気がもらえる」と助産師さんから言われていた。

その後赤ちゃんはしばらくすっぱだかで寝かされていたところ突然放尿を始め、おちんちんが上を向いていたので、おしっこを全て自分の顔で受けることになり、それでもって泣きはじめるという、すなわち泣きながら自分のおしっこを全て自分の顔面で受け止めるという、一人阿鼻叫喚の図をやってのけた。助産師さんから「こんなことある!?」とビビられていた。

おしっこ騒動後おくるみを着た赤ちゃんを、僕が抱っこをさせてもらった。恐る恐る抱くと温かくて、3676gといってもやっぱり赤ちゃんで小さいなあと思った。鼻筋をスッとなでてみるとくすぐったいのかむずがる様子を見せた。人差し指を手のひらに持っていくと小さな手でギュッと僕の指を握りしめた。嫁さんによく似ていると思った。

出産から1時間ぐらいは分娩室に嫁さんと赤ちゃんと一緒にいさせてもらって、そこでタイムアップとなった。
立ち会いが許可されていると言っても、生まれる間際に呼ばれてちょっと立ち会ってすぐサヨナラかと思っていたのに、このコロナ騒ぎの中、生まれるずっと前から合計6時間も立ち会わせてくれた病院には本当に感謝している。
おかげで、嫁さんと赤ちゃんと皆でやり遂げたのだとの実感を持つことが出来た。僕が今まで生きてきて経験したどの瞬間よりも素晴らしい瞬間だった。

病院を出てNBOXに乗り込み、病院の駐車場から嫁さんのお義母さんと、僕の兄と父と母に電話をかけた。
母は嫁さんが入院してから3日間、電話の前でずっと待っていたそうだ。
途中で出産が難航していることを伝えた方がいいかとも思ったが、下手に連絡をするのもかえって心配をかけると思って何も連絡を入れなかった。
そもそも母から「あんたから電話かかってきたら産まれたと勘違いしてまうから、産まれるまで電話せんといて」と言われていた。
にも関わらず産まれた連絡を入れると3日間音沙汰無しだったことを随分言われた。
まあ、無事産まれたのだから何でもいい。

兄も喜んでくれて、父は電話に出なかった。いつものことだ。

それから車を発進させて、僕は嫁さんの実家へ向かった。
大宴会が待っているのだ。




2021年2月3日立春大吉。僕たちの間に新たな春の風がやってきた日。