ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

『ぼくたちは習慣で、できている』を読んで

この夏、一応仕事ということで上海に行ったが、退屈な飛行機の時間を何とかしなければならないと、出発前にちょっと本屋へ立ち寄った。
『ぼくたちは習慣で、できている』という本のタイトルを見かけた時、自分と同じようなことを考える人もいたものだ、と思った。
yoakenoandon.hatenablog.com

普段自己啓発みたいな本は全く読まないので、その時は手に取らずに他のめぼしい本を探しにいったのだが、なかなか僕の琴線に触れる本が見つからず、グルグル本屋を回っているうちに出発までの時間も迫ってきて、やむを得ず、内容をほとんど確認しないまま唯一僕の目に留まった先の本を買うことにした。

内容を見て、似ている、と思った。僕はその本の著者の方ほどストイックではないが、読んでいる本も、考えていることも、個人の日記をつけているところも似ている(つけ方はほぼ真逆だが)。中学の時バスケ部だったことも、そういえば少し文体も似ている気がする。読んでいてなんだか妙な気分になった。

それでまあ、まるで自分がその本を書いたみたいな気分になってスラスラと上海に着く前に一気に読み切ってしまった。

その本の中に何か一つでいい、良いなと思うところがあれば、それで僕は十分その本を買う価値があったと思える。世の中にある本のほとんどは自分にとって何でも無いからだ。読んでいる最中に投げ捨てたくなることも、燃やしてしまいたくなることもしばしばだ。

『ぼくたちは習慣で、できている』にはその良いなと思えるところが多分にあった。
特に「週1回走る」より「毎日走る」方が簡単だという文章を読んだとき、目からウロコが落ちるようだった。確かに僕は週1の方が毎日より簡単だと思っていたのだ。

「毎日」には迷いがない、その通りだ。毎日なんだから「今日は特別」ということが無い。すなわち言い訳も無い。
少しでいい、一回でいい、一行でいい、毎日やる方が楽だ。選択肢は無い方が楽なのだ。

この本を読んで以来1カ月、毎日やっている。腕立てとスクワットと何かを書くことを毎日やっている。調子よくいくこともあれば、本当に一回で、一行で終わることもある。だけどそれでもいいのだ。やった、と思えるから。一日に、自分に納得できるから。今はまだ一カ月、だけどこれらのことは、これからもずっと続くのだ。


毎日やりながら禅坊主だったじいちゃんや、そのじいちゃんのもと幼き日に厳しくしつけられた親父のことを思った。じいちゃんや親父も毎日だっただろう。毎日己を律していただろう。

僕は美しい人よりも、美しくあろうと己を律し続ける人を美しいと思う。自分もそうありたいと思う。

これから死ぬまで、毎日だ。この本を読んでそれを思った。