ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

授業準備について

以下、ものすごくまとまりのない文章になっている。
6年間高校の常勤、ならびに非常勤をやってきて、自分が大きな勘違いしていたことについこの間気が付いた。

先週一週間の授業を終えて、一学期に一生懸命にやったプリント作りは正しく無駄だったのだと思い知った。先週の授業は全部教科書をまとめただけのシンプルなプリントでやった。全く工夫のない、つまらないプリント。ところが、一学期とは全然違う手応えを得られた。そのことは少なからず驚きであった。
僕が一学期作った手の込んだプリントは、授業の大勢に影響するものではなかったということだ。

授業準備において最も大事なことは、用語についての細かな調べものをすることではなく、それをプリントに書き入れることでもなく、また己を理論武装することでもなかった。そんな調べればわかる知識など誰も求めてはいないのだ。

逆説的な、変な言い方になるが、授業において最も大切なことは「教えない」ことなんじゃないかと思った。「教えなければならない」という意識がある時点でその授業は強制的になる。一方通行になる。一方通行の授業はつまらない。生徒にとってはもちろん、先生にとってもつまらない。つまらない授業は誰がなんと言おうと悪だ。最大限の努力を払って回避しなければならない。生徒が全員つまらなそうな顔をしていて、そのことがわかっていながらどうすることもできず、授業を続行しなければならないというあの地獄、あの地獄を「強制する知識」はいとも簡単に現出する。

知識自体を否定するわけではない。だけど、たとえどれだけの調べものをしたとしても、その知識を自らが面白いと思っていたり、必要だと思っていない限り、その知識は空っぽの言葉になる。空っぽの言葉は無駄だ。もっと言えば嘘だ。生徒は耳を傾けない。それを強引に聞かせようとすれば拒否反応を起こすのは当然だ。授業準備で増やすべきは空っぽの言葉ではない。それは単に授業の邪魔をする。

授業を面白くするのはどこかに書いてある孫引き、曾孫引きの言葉じゃなくて、自分の中にある言葉なのだ。どれだけ量が少なくても自分の中にある言葉を引き出す方がはるかに大事なことだ。授業準備ではそれをこそ一生懸命に考えなければならない。その言葉の無い授業は、そもそもの必然性が無い。僕がその授業をする必然性がこれっぽっちも無いのだ。それこそネット見てりゃそれで済む話だ。
逆に、今まで僕の授業を面白いと言ってくれた生徒は、意識せずに出ていた僕のオリジナルの言葉に面白さやパワーを感じてくれていたのだと思う。細かな、どちらでもよい知識に何かを感じたわけでは決してないだろう。

自分の中から出た言葉はいとも簡単に生徒との関係をイーブンにする。先生が上、生徒が下、そんな意識をぶち壊してくれる。そうして生徒と「話」をさせてくれる。教えない、ということはすなわちそういうことだ。その言葉を持って初めてそこへいけるのだ。

その言葉を見つけられたなら、もうそれで授業準備としては十分なのだと思う。誰にでも教えられる知識は誰かに教えてもらえばいいし、さらに言えば自分で簡単に獲得できるだろう。そんな事柄は僕にはどうでもいい。僕は僕の授業をする。
ただ、プリントの挿絵だけは楽しみにしてくれてる生徒もいたみたいなので残そうと思う。

もしかするとここで書いたようなことは先生をしている人なら誰でも知っていることなのかもしれない。「何を今更」ということを僕はやっぱり今更になって発見する。それで一人嬉しくなる。幼い頃から僕にはそういうところがある。