ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。不定期更新です。

先生の資質

先日、正教諭の先生方と飲みの席に同席させていただく機会を得た。その中で、この夏休みに予備校の先生を招いて講習をして頂く、という話が管理職サイドで勝手に決まってしまってしていて、職員会議が大荒れに荒れたという話が出た。僕は非常勤講師なので職員会議には参加できない。その話は初めて聞いた。

近隣の高校でもそのようなスタイルを採る学校はあるらしく、やはり予備校の先生は大学受験のプロなので、講習を開くと生徒の成績があがる代わりに、学校の先生の授業を聞かなくなるらしい。中には生徒が授業を聞いてくれないので、全てを諦めて、その予備校の先生の授業の映像を流すだけ、なんていうミラクルな授業展開をされる先生もいらっしゃるという。その光景を想像するだけで少し寂しくなる。

うちの学校でもやはり生徒との信頼関係に関わるから、と予備校の先生を入れることには反対派の先生方が多く、勝手にそのことを決めた管理職のやり方に会議の席を立つ先生もいたそうな。
結局僕の勤務する学校は偏差値としては良くもなく、悪くもなく、といったところなので、進学意識もそれほど高くないのか、この予備校の先生の夏期講習への参加申し込みはほぼ無く、この話は立ち消えになって、管理職と教諭との間に妙な溝だけが残った。純粋に講習の値段が高かったということも影響しているのかもしれない。

今回の管理職のやり方は非常にまずかったとは思うが、予備校の先生を学校に入れること自体は、僕は構わないのではないかと思う。予備校はプロだ。結果が全ての世界で生きている人たちの意識は、学校の先生のそれとはかけ離れて大きく違うだろう。偏差値を上げたい生徒が、そのことにひたすら注力してきた予備校の先生の授業に夢中になるのは当然であろうし、それによって学力が上がるのなら誠に結構な話ではないか。学生にとってはメリットしかない。
それはその予備校及び予備校の先生方の努力の結果であって、そのことをつかまえて、「予備校の先生に分かりやすい授業をされると学校での授業がしにくくなるからやめていただきたい」というのは違うのではないか。僕にはそれは学校の先生の怠慢に映る。

高校生は馬鹿ではない。自らの価値基準をきちんと備えている。価値があると認めればその授業を聞くだろうし、価値がないと思えば聞かない。簡単なことだ。
学校の先生も価値のある授業をすればよいだけの話だ。別に偏差値を上げる授業をしなくともいいじゃないか。授業における価値の側面は他にいくらもあるだろうし、また価値ある授業ができるから「先生」と呼ばれるのだろう?

この話を居酒屋で聞いていて、僕自身は聞く一方で何ら発言をしなかったが、そういう時代に変わりつつあるのかな、と思った。公私を超えて価値のあるものが残る、そうでないものは淘汰される。
そもそも、先生になりたいから先生になる、ということ自体に僕は違和感を感じる。先生というのは他の誰にもできないことをやってのけてしまったがために、本人はそんなつもりもないのに、周りから慕われ、請われてやむを得ず先生になる、というのが本当の姿なんじゃないだろうか。そうではなく自主的に先生になるということは一体どういうことなんだろうか。周りの人より抜きんでたところもない、特別なことをしてきたわけでもない人間が、一体生徒に何を教えるのだろう。誰を導けるというのだろう。

教員免許を取得し、教員採用試験に合格したから先生になれるのか。それではまるでハリボテの先生じゃないか。そのハリボテだった先生が、ハリボテであることを隠す一方で、自らの先生としての価値を見つめなおそうとせず、本当に価値あるものを拒絶するのは、怠慢という以外に言葉が見つからない。そのような人間を先生と呼ぶことすらおかしさを感じる。それはただのダルな管理者だ。

そして僕自身まだまだハリボテのままなのだ。
生徒に認めてもらえるだけの価値のある授業をしたいと思う。そして「これだけは誰にも負けない」という懐刀を自分の中に持ちたいと思う。
一点において突破してしまった人間は、全面に展開できる力強さを持つ。先生とは無縁の、一番身近な人間から僕はそれを学んだ。そしてそれこそがまさに先生と呼ばれるにふさわしい資質なのだ。